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「迷い箸」騒動から考える、「ルッキズム」「セクシズム」と、今後あるべきミス(ター)コンテストの姿

先日、ミス関西大学コンテスト(Miss Campus KANDAI 2020)に出場している岸本沙季さんがInstagramで「迷い箸」をしているのをTwitterにして指摘したところ、思いも寄らぬ規模での反響を得ました。

この記事では、「ミス(ター)コンテスト候補者に求められるマナー」について改めて確認しながら、「ルッキズムやセクシズム批判」の観点とともに、「求められるミス(ター)コンテストの在り方」について考えていきたいと思います。

はじめに

2020年09月18日に、先述の岸本沙季さんがInstagramに『休日のお出かけ』と題した動画を投稿しました。

その中で、明らかに「迷い箸」とされる箸の使い方をしているシーンがありました。「迷い箸」は「惑い箸」「なまじ箸」とも呼ばれる「嫌い箸(箸のタブー)」の一つです。

こちらをTwitterにてご本人に指摘したところ(*)、ブロックされてしまいました。そして、それをご報告したところ、前述のような大きな反響を呼ぶことになりました。
*本来であればご本人には内々にお伝えするべきでしょうから、まず、共通の知人に相談しましたが、反応はありませんでした。次に、Twitterのダイレクトメッセージ(DM)機能を用いてお知らせしようとしたものの、DM機能は閉鎖(フォローされていないとDMを送信できない上に、プロフィール欄に「DMには返信できません」と記載)されているため、不本意ながらツイートでご連絡するほかありませんでした。

「たかがテーブルマナー」と言うことなかれ

「テーブルマナー」の指摘に「そんなことくらい」と考える人も、決して少なくないでしょう。「嫌い箸」を始めとするテーブルマナーは、一見すると「どうでも良い」ものに見えるかもしれません。

しかし、これらのマナーはきちんと理由が積み重なって形成されているものです。例えば「迷い箸」であれば、箸先に付いた唾液や食べ物の欠片(かけら)が、これから食べるものに付いたり落ちたりすることが不衛生、とされているようです。

そして、仮に合理的な理由がなくとも、テーブルマナーは「プロトコル」であり、遵守することで「自分は文明や教養を身につけている」と証明する振る舞いです。「無言の合言葉」と言えるかもしれません。

実際に、私は英国に滞在しているときは「黄色い猿」と思われないように、日本にいるとき以上にテーブルマナーには神経を尖らせながら生活せざるを得ません。食器すらまともに扱えなければ、ましてそれが黄色人種なら、悲しいかな「人間扱い」してもらえない現実が、そこにはあります。誤解を恐れずに言えば、自分たちが手掴みで食事をする「猿」ではなく、まともに食器を扱える「人間」であるとアピールするするために、テーブルマナーには気を遣わなければなりません。

関西大学のみならず、多くの大学の「ミスターコンテスト」や「ミスコンテスト」(本稿では一括して「ミス(ター)コンテスト」と表記します)は各大学やキャンパスにおける「代表的な学生」を選出するものです。その代表的な立場にある人物がまともな振る舞いすらできないとしたら、「この大学の学生たちは文明や教養を知らない」とのメッセージになりかねません。

だから、決して「たかがマナー」と侮ることなく、「されどマナー」として、特に大学を代表する立場にあるなら、他の学生以上に、特にWebで公開する動画なら、テーブルマナーに気をつけなければならないのです。
*これは「大学」を代表するミス(ター)キャンパスのみならず、「国家」を代表する政府首脳や外務大臣、「企業」を代表する経営者でも同様です。また、そういった立場でなくとも、会食や冠婚葬祭といった「他人に見られるシーン」であれば、誰であってもテーブルマナーには気をつけるべきでしょう。

*私の指摘や批判に烈火の如く怒って、「マナーなんて合理的じゃない!」「どうでも良い!」と言ってくる人たちもいました。確かに、大学や国家、企業といったコミュニティや法人・団体を代表しない立場だったり、日頃のランチや飲み会だったりすれば、多少なりともマナーには気を遣わなくて良いこともあるでしょう。それでも、テーブルマナーを「合理的じゃない!」「どうでも良い!」と開き直る姿勢は「私は文明や教養を軽視する人間である」「野蛮な猿と思われても構わない」と宣言するのと同様であり、それを公言している姿は「厚顔無恥」と言わざるを得ません。

いまこそ、ミス(ター)コンテスト候補者はテーブルマナーを徹底するべき

そして、テーブルマナー以上に考えなければならないのは「ルッキズム」「セクシズム」です。

岸本さんには、「可愛いは正義」との擁護もありました。しかし、よく考えたら、これは非常に恐ろしいものです。

「可愛いは正義」ということは、「可愛くないは不正義」。つまり、「美男美女であれば何をしても(例:マナー違反でも)『正義』として許される」一方で、「容姿が整っていなければ(本来なら許されるはずのことでも)『不正義』として許されない」という恐ろしい思想です。そして、その見た目さえ良ければ良い」との発想は、紛うことなき「ルッキズム」です。

しかも、大学という場所は、多様な学生が対等に学び、学問を探究する場所です。そこに、例えば学問や研究に結びつくであろう成績や知能ならまだしも、「外見」や「容姿」といった要素でのみ評価されるコンテストを大学に持ち込むこと自体、本来的にはナンセンスでしょう。

さらに、「女性は可愛く振る舞ってさえいれば良い」というのは、女性に対する「可愛い」という女性像の押し付けに他なりません。どう考えても、多様なジェンダーやセクシャリティを真っ向から否定しています。本来なら、誤解を恐れずに言えば「可愛く(振る舞わ)ない女性」がいても構わないし、その人の存在や価値が否定されてはなりません。「女性は可愛く振る舞うのが正義」としたら、それは疑うまでもなく「セクシズム」です。
*付言すると、そもそも「ミスター」「ミス」や「男性」「女性」との区分け自体が多様なジェンダーやセクシャリティの否定であるとも指摘できます。

実際に、近年、ミス(ター)コンテストには「ルッキズム」「セクシズム」の観点から、ミス(ター)コンテストに批判が噴出しています。その結果、例えば上智大学は従来のミス(ター)コンテストを廃して「ソフィアンズコンテスト」を始めました。

この「ソフィアンズコンテスト」は外見や容姿、ジェンダーやセクシャリティに関係なく大学を代表する学生を選出する試みという観点で、ミス(ター)コンテストのポジティブな形での発展と評価できます。

前置きが長くなってしまいましたが、仮にミス(ター)コンテストで「見た目さえ良ければ、もしくは男性らしく・女性らしく振る舞えば評価される」としたら、それはそのコンテストがルッキズムやセクシズムに則したものであることの証左に他なりません。逆に言えば、そのコンテストがルッキズムやセクシズムに則したものでないことを示したいなら、候補者や運営関係者は外見や容姿以外の要素(例: 学業、教養、文芸、スポーツ、ボランティア、マナーほか)でもアピールを重ねて、公平公正に評価される努力を怠るべきではありません。
*仮にそのコンテストがルッキズムやセクシズムに則していることを認めて開き直るなら、コンテストへの「反ルッキズム」「反セクシズム」の観点からの批判は当然に受忍するべきでしょう。

*個人的にご縁があるミス(ター)コンテスト候補者や運営関係者のことも応援していますが、それでも外見や容姿だけで評価することなく、勉学や部活動に励んでいたり、人間性が高かったりする人物を応援するようにしています。外見や容姿以外にも優れた要素を持つ人物を応援して、彼(女)ら評価されるように声を挙げていくことが、結果的に先述のルッキズムやセクシズムからの脱却に繋がると考えています。

つまり、本来的にミス(ター)コンテスト候補者がテーブルマナーのみならず、所作や仕草に気をつけるべき理由はここにあります。「マナーがどうであっても見た目が良くて、可愛ければ良い」との態度は、「このコンテストがルッキズムやセクシズムに則した、倫理的に問題あるものであり、自分はそれに加担してる」との意見表明になってしまうのです。

しかも、ご自身のマナー違反への指摘に対して「ブロック」で応じたことも、ミス(ター)コンテストとしての立場であれば批判されるべきものでしょう。自分への批判に耳を塞ぐとしたら、「自分をちやほやしてくれる意見しか認めない」という意思の表明に他なりません。どう考えても、それは「都合が良すぎる」はずです。「迷い箸」というマナー違反をしてしまったなら、(別に返信しなくても構いませんが)その指摘は受け止めるべきだし、次からは襟を正して今後に臨むべきでしょう。そのような「裸の王様」とも言える態度の人物が、大学を代表する「ミス」として相応しいのか、という問題提起も当然にしなければなりません。

斯くして、私は「ミス(ター)コンテストの在り方」を問う意義からも、岸本さんのマナー違反と、逆上するかのような「ブロック」を批判するに至りました。
*なお、「関西大学の関係者でもないのに」とのご指摘もありましたが、(たとえ私立大学であっても)公共機関たる大学の名前を冠していたり、社会的に何らかの影響が多少なりともあり得るコンテストであれば、部外者とて一人の市民として異を唱えるのは当然に「言論の自由」に属します。

なお、この後に続く議論やネットリンチについては、別の記事にしていますから、そちらもご覧ください。

おわりに

先述の通り、「ミス(ター)コンテスト」の在り方について、ルッキズムやセクシズムへの批判から思うところは多々あります。ただ、それでも、ミスター&ミス関西大学コンテストそれ自体は頑張って欲しいと、思うばかりです。

ミス(ター)コンテストを批判する「言論の自由」があるように、ミス(ター)コンテストを開催したり、それを目的とした団体を立ち上げたりする「集会・結社の自由」も、認められなければなりません。
*個人的には、現状に批判があるからこそ、単なる「美男美女選手権」ではなく、候補者が多様な観点から評価される仕組みが導入され、ジェンダーやセクシャリティについて一石を投じたり、社会にインパクトを与えたりするイベントに昇華して欲しいと、強く念じます。

さらに、ミスター関西大学コンテストでは、いわゆる「ハーフ」とされる生い立ちの候補者に、レイシストからの誹謗中傷が相次いでいると伺っています。

人種差別はマナー違反やその指摘以上に、強く批判されるべきものです。ぜひ、ミスター&ミスキャンパス関大2020の候補者や運営関係者の各位には、レイシズムに負けないで、より高次なコンテストになるよう頑張って欲しいと、老婆心ながら、思うばかりです。

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