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ドライブ・マイ・カー/濱口竜介監督

2021-09-29鑑賞

濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」を見る。

https://dmc.bitters.co.jp/

村上春樹の『女のいない男たち』のひとつ目の短編「ドライブ・マイ・カー」がこの映画の原作となっている。普段は映画の原作をあらかじめ(いや鑑賞後でさえ)まずは読むこともないのだけれど、2014年の刊行以来、幾度となく読み直す大事な本でもある。まさに「村上春樹らしい」やや異次元を漂う小さなそれが、濱口監督の翻案・脚本で3時間の、それでもあの「ドライブ・マイ・カー」でありながら、繊細で美しい濱口映画に仕上がっていたのは驚き以外の何ものでもない。カンヌの脚本賞である。

家福かふく(西島秀俊)は舞台俳優であり演出家でもある。家福と「多言語」の俳優で演じる「ゴドーを待ちながら」の舞台が映る。

家福と妻のおと(霧島れいか)二人の「関係」が描写される。小説では詳しく書かれてはいない部分だ。少し驚いたが、というのは短編集の別の作品が、音の「語り」の中に挟み込まれているからだ。ある真面目な高校生の女子が、学校を休んで片想いの男子の家に繰り返し忍び込む話だ。音は家福との性交のたびにそれの語り(創作し)、翌朝に家福が記憶し語り直したその話を書き留めるている。4歳の娘を亡くし、それから二人の間にはなんとなくぎこちない空気が流れている。ある日、加福は音の浮気の現場を目撃してしまう。

おとが亡くなるまでの描写は、おそらく30分以上はあったと思うが、そこで初めてクレジットが示され、ここまでが映画のプロローグだったと気付かされる。これから先が本編の「ドライブ・マイ・カー」となる。

妻のおとを失って二年。家福は演劇祭のディレクターとして招かれ、広島を訪れる。劇場から離れた場所に宿を取った家福は、運営側から「彼の車を」運転するドライバー渡利みさき(三浦透子)を紹介される。広島というロケーション設定は原作には無いが、最終的には、みさきの故郷北海道の小さな村への「距離」として重要になる。演劇祭での演目はチェーホフの「ワーニャ伯父さん」。この映画内の舞台の台詞、そしてその言葉のやり取りこそが物語の進行の鍵となる。韓国・台湾他からオーディションを受けに来た役者達の中に、かつて音と関係を持っただろう若手俳優の高槻(岡田将生)が加わり、事態は思いがけない方向に進んで行くことになる。

劇中の「ワーニャ伯父さん」のクライマックスは、結局は家福自身が演じることになったワーニャに、ソーニャ役のユナ(パク・ユリム)が韓国手話で語りかけるところだ。静かに、しかし力強く。

「仕方ないわ。生きていかなくちゃ…。長い長い昼と夜をどこまでも生きていきましょう。そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう。あちらの世界に行ったら、苦しかったこと、泣いたこと、つらかったことを神様に申し上げましょう。そうしたら神様はわたしたちを憐れんで下さって、その時こそ明るく、美しい暮らしができるんだわ。そしてわたしたち、ほっと一息つけるのよ。わたし、信じてるの。おじさん、泣いてるのね。でももう少しよ。わたしたち一息つけるんだわ…」

(公式サイトに名前すら掲載されていないのだが、パク・ユリムの演技は明らかにこの映画に奥行きを与えていた。)

映画について一言でいえば、家福の「傷」、そしてみさきの「傷」が、「車の運転」の中で次第に明らかになり、その「傷」を受け入れ、残りの人生を「生きていく」ことを選択するまでの過程が、濱口監督の「ドライブ・マイ・カー」であろうか。みさきの頬の「傷」が写る。だが同時に、映画を見ることは決して一言では語り尽くせない深い体験でもある。全編にわたり誠実さを湛えたこの作品は、ここ数年の日本映画の中でも、他に変え難い傑作だと言えよう。

監督:濱口竜介  
出演:西島秀俊 | 三浦透子 | 霧島れいか

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