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「Demiちゃんが行く!」#31写真家 緒方秀美 私小説 "バッファリン7錠"

私にとってBlankey Jet Cityの写真集は初めての出版だったので、最初は信用してもらえなく、とてつもない試練がありました。それでも自分を信じて撮る事を辞めなかったらギリギリの所で救いの手が入った事を思い出してます。

第31話 "バファリン7錠"
デミが破茶滅茶な行動するとブランキーのプロデューサーに「もう撮らせない!!」と言われたのがショックで仕方なかったけど、それでも撮らないと前に進めないとドキドキを紛らわすためにバファリン7錠を飲んでブランキー初武道館ライブに向かった。
武道館に着くとマネージャーが出て来てデミの事を入れてくれた。緊張とバファリンが効いているのかクラクラする、誰とも話さず撮影だけに集中した、そしてブランキーにとっての最初の武道館ライブは感動するくらい素晴らしかった!!!
ライブ後にバックステージに行き達也さんに「もうブランキーの事を撮らせないと言われたの、でも達也さん私のこと誤解しないでね」とデミは言った「誤解しない!!!」
と達也さんは力強くデミの手を握りしめてくれた。ベンジーもテルちゃんもそうだった。
メンバーはデミの事を信じてくれている、それだったら頑張れる。あれだけの写真撮ってもプロデューサーがデミの事を信用しないで、何もしない出版社の社員や株式会社のアートディレクターを信用するのって何だろう?あっそうか肩書きか~~!! デミはどんなに実力があって頑張っていても無名のカメラマンだからな〜〜。だったら日本で肩書きのある有名なアートディレクターや出版プロデューサーに頼んでみよう。デミは18歳の頃から憧れていたパルコやサントリーの広告を手がける原耕一の連絡先を調べた、原さんの仕事は全部見ててカメラマンになったらこの人と仕事したいと思ってた人だ、原さんからデミの事は見つけられないだろうから
私から原さんの門を叩こうとオフィスに電話した、感じのいいマネージャーが出たので原耕一にアポイントメントを取った。原さんに会うとマーロンブランドに似てる渋いタイプの声もハスキーボイスで「誰かの紹介で来たの?」と言われた「イエ、広告年間で連絡先を調べて来ました。紹介じゃないと会って頂けなかったのですか?」
「そんな事ないよ」と原さん。写真を見せると「君、写真うまいね~~~!!」と原さん、デミは嬉しくて「ヤッター!!だったら私に協力してください」「協力って何したらいいの」と原さん「名前かしてくれたらいい」とデミ「名前だけでいいの?」とりあえずそれでと今までの経緯を説明して、原さんがアートディレクターで協力してくれる事になった。そして出版プロデューサーとして日本で最も活躍して何冊も写真集をプロデュースしてる後藤茂雄さんに連絡した。
後藤さんはなかなか会おうとしてくれない、どんな写真撮ってるの?電話で済ませたい様子、会って写真見せないと分からないと思うので一度会ってくださいとデミの迫力に負けて会ってくれた、みんなから絶賛されているブランキーの写真を見せても後藤さんにはボロクソ言われた。単調でつまらなすぎるもっとドラマチックな写真を見たいとボロクソ、デミも真剣にこれで作品完成したわけじゃないので、これから撮って写真集にするから力を貸してください。私の可能性に賭けてみてください。またハッタリかましながらお願いした。ハッタリかまそうが何をしようがブランキーの写真集を完成させるには彼ら二人の力がどうしても必要だった。デミは日本でトップの二人、編集 後藤茂雄 アートディレクター原耕一というスタッフでレコード会社にプレゼンした。そうしたら案の定すぐにオッケーもらった、あれだけ撮らせないと言われてたのに、後藤さんと原さんがついてきたら直ぐにオッケーしてくれるんだ、世の中ってそんなものか~~~
世の中がそれで動くなら、有名なカメラマンになるしかない。有名になっても矢沢永吉さんの様に本質を観れる人でいるけどね。と心でつぶやいた。
後藤さんと原さんのおかげで本当のプロジェクトとして事が進みだした、撮影経費としての旅費やフィルム代はレコード会社がブランキーのアー写撮影費として出してくれる写真集発売は1995年12月、ロンドンでの撮影をし代々木公園でのストリートライブが最後の撮影だと決まった。

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