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官能小説|接待、道具妻 第2話

 井上部長に手を握られたままの葉子は、隣の僕に縋りつくような視線を送ってきた。でも・・・・・・、臆病で打算的な僕の身体は動かなかった。

 そんな僕の態度を見透かしたかのように、「ふんっ」と鼻を鳴らした井上部長は、引っ込めようとする葉子の手を握り続けた。

 ただ深酔いしているだけの井上部長の行き過ぎた行為―――、そんなに大袈裟なことではない、と自分に言い聞かせる。

「藤田君、まだ内緒なんだが――― 私がね、役員になるって話があるんだよ。いや、まだ正式な話ではないのだがね」

「えっ!? や、役員ですか?」

 妻の手を握ったままの井上部長が、ニンマリとした笑顔で言った。役員の話は会社では既に噂になっていた。本当の話ならば井上部長も異例の出世と言えた。
 もったいぶった言い方の井上部長に合わせるように、僕は少し驚いたように見せて聞き返した。

「ああ本当だ。業績回復の手腕が認められたんだと思う」
「凄いですね」

 恥ずかし気もなく自分自身を褒める井上部長。それに乗っかる会社組織の中の小さな歯車の僕。
 昇進祝いのはずが、やっぱり井上部長の接待になっていた。

 それにしても役員なんて―――、ますます井上部長に逆らえない。
 そもそも課長昇進は井上部長の後ろ盾があってのことで、もともと逆らう考えなど毛頭ないのだが―――、今夜に限ってはやりにくい情報だった。

 葉子の手を握って離さない井上部長。露骨ではないが嫌がる素振りで話を聞いていた葉子が、引っ込めようとしていた腕の力を抜いたように見えた。

 もともとOLとして働いていた葉子は会社組織というものをよく知っている。現状では井上部長の不幸を買うことは、藤田家にとって得策ではなかった。そう、井上部長はただ悪酔いしているだけなんだ。今夜のことは後で謝ろう―――、ゴメンな、葉子。

 小さな祝宴は、徐々に井上部長の接待へ移行してゆく。
 上機嫌の井上部長の喋りは止まらなかった。そしてしばらく続いた自慢話から話題が変わった。

「私が役員になったら部長の席が空く。まぁ課長になったばかりの君には早いが、ゆくゆくは私の後継にと考えているんだよ」

 酔って充血している部長の目は力を失っていない。鋭い眼光に射抜かれた僕は、井上部長の言葉にゴクリと唾を飲み込んだ。

「わ、私が部長・・・・・・」
「そうだ、他に誰がいる! 業績のV字回復は君という存在があってのことだと私は考えているんだよ。もちろん現役員連中も同じ考えだ」

「あ、ありがとう、ございます」
井上部長の言葉の全てを信じる訳ではない。でも、絶大な権力を握る上司から面と向かって言われれば誰だって―――、喉がカラカラだった。

 手を握られたままの葉子は話を黙って聞いていた。打算的な僕に続いて、同じように色々と考えているようだった。

 そして僕に向けられていた、縋りつくようだった弱々しい葉子の視線が途切れた。

「部長さん、空いてますわよ。もう一杯いかがですか」
「おっ、すまんね、奥さん。じゃあもう一杯――― 美人の奥さんの手酌だと酒がすすんでいかんね」

 セクハラを受けて弱々しかった葉子の態度が一変した。井上部長に酒をすすめ、上手い具合に握って離さなかった手を引かせる。

 会社で夫の後ろ盾となっている男から聞いた、将来の部長就任の話。普段は、「仕事より家族の時間を大切にして」と言っていた葉子は何を思い描いたのだろうか。

 葉子の注いだ酒を旨そうに飲み干した井上部長はご満悦だった。ふと横を見ると、葉子と目が合った。唇を固く結び、井上部長に悟られないくらいに小さく頷いて見せた。

 会話を交わさなくても、妻の意図は理解できた。夫の出世のために一肌脱ぐ決意。内助の功というやつだ。

 葉子からすれば井上部長は元上司。家に招く話をした時の浮かない顔が思い返された。それでも葉子はやる気になっている。
 接待に付き合わせる申し訳ない気持ちもあったのだが、打算的な僕の考えはそれを大きく上回っていた。

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