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純粋な「HEAVEN願望」こそが瞑想

浄土真宗は別名「一向宗」という呼び方を持っています。

一心に阿弥陀仏の本願に向かうという意味でもありますが、
法然の専修念仏をさらに進めたともいえる、
「唯心」というものだと言えます。

すなわち、阿弥陀の本願にすべてをゆだねるのだ。
という境地です。
そこから生まれた「観」というのが
「悪人正機」という考え方だとも言えましょう。

親鸞が説いた核心は、ここにあったのではないのかと、
あたし個人では考えています。
すなわち、浮世の「小知=こざかしい処世術」によって、
えらいとか、いい人だとかと言うこと。

 あるいは、我が方に義がある。
みたいな感じで「戦い」をする人より、
「私は本当にバカで悪いことをした。」
と心から思っている人の方が、
よほど阿弥陀の本願に近いのではないのか。という考えです。




そういうこざかしくない人は、
自分の「おろかさ」に心底気づいているから、
ひたすら「阿弥陀仏」の本願にたより、
極楽浄土での「ブッダになるための修行」を願うのです。
むしろ「極楽浄土大学」のAO入試みたいなものかな
と言う観がしていました。

こういう論理から言えば、浄土真宗は
「キリスト教」と共通項があるんじゃないのか?という人がいますが、
そもそも「宗教」とはその存在において、
根本は全くおなじであると考えていますので、
あたしの見解としては、至極あたりまえの事だと思っております。


しかしながらここで言える事は、浄土信仰において言うならば
仏教における「瞑想」にあたる行為が、「念仏」であることです。

大事なことは「ひたすら一心に」ということで、
いわゆる「トランス」とでも言いましょう。
考えればそれは、大乗仏教においてはどのような方法でもいいのです。

問題は、そのあとに到達する「なにをおもったの」にあるからです。
言ってみればそれが「悟り」とよぶものなのでしょうね。 いろんな言い方がありますが、たとえば空海や最澄は、
これを「即身成仏」とか「止観」という表現をしています。

 この方法論が、日本仏教では、念仏に限らず、
禅や唱題目といった、多彩な展開を見せることになるわけです。
これらは方法論であって、いわゆるサマタであり、
その後に訪れる世界がヴィッシャナであり、
極楽浄土であるとか、今この一瞬であるとか、
法華経の三千世界であるということです。
ですから、すべてにおいて「万人が悟りの境地に至るのだ」という、
大乗仏教の思想が底に見いだせるわけです。

言ってしまえば「極楽往生」したいと考えるのは、
「修行の始まり」であり、
その結果「悟りニルヴァーナ」が得られたのなら、
確かに「HEAVEN」と言うことにもなりましょう。

問題は「寂静涅槃HEAVEN」を「どこに置くのか」という概念です。
この点において、仏教の宗派は違いを見せているのではないのか。
と考えるわけです。
次回はこのことをもう少し突っ込んで考察してみることにいたしましょう。

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