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ビートルズとの旅を終えて  Fab4 in my life

ポールにとって、ビートルズは人生であり仕事であり、その仕事が大好きだったが、ジョンは仕事が嫌いで個人活動のほうが面白くなってきた。
4人はそれぞれが後戻りできない状況を作り出し、自らを袋小路に追いつめていった。解散は避けられなかったと今は思う。
解散に至るビートルズへのオマージュは以下に記した。

ボーイズは成長し大人になった
リバプールで生まれたボーイズは、15歳~17歳の時から兄弟のような絆を保ち楽しく過ごしてきたが、解散時は既に27歳~29歳の大人になっていた。
生活をビートルズに捧げてきた4人は家庭を築き、自分の暮らしや幸せ、自分の生き方に自然と拘るようになった。

仲良しグループの頃、音楽的な衝突があっても、向上心の御旗のもと危機を回避し、物事はスムーズに進んだ。
しかし、ユーモアやウィットを言い合う余裕もなくなり、大人になるにつれてプライドや自我に傷がつく状況が続き、4人が同じ場所に集まっても口喧嘩が勃発し、そこは楽しい場ではなくなった。

スカウス訛りの田舎者の元気な若者たちは、エルビスを超えるという高い理想を掲げて自分たちの力を信じて前進を続けた。
ミュージシャンをしながら自分たちで会社までも起ち上げ、その失敗にもめげず、金、欲望、薬など考えられる様々な問題に巻き込まれながらも、なんとか局面を打開し前向きに新しい良い音楽を創ってきたのだが。

私たちは解散を阻止したが
個々の人間が幸せを求めることはまともな人間の成長だが、私たちは彼らを解散させようとはしなかった。
私たちは当事者の苦悩も知らずに、彼らをひとりの人間ではなく、いつまでも楽しい音楽、幸せを届けてくれるビートルズであると考え、そうあり続けてほしいと願っていたのかもしれない。そして、ビートルズは次第に周りの関係者の人生さえも狂わすようになった。
もちろん、ビートルズ自身もエルビスやバディ・ホリーが自分たちにそうしてくれたように、音楽は人を幸せにする、ということは百も承知だった。

しかし1968年以降、個々の人間的成長によりグループとしての結束が緩み、結束した4人の仲良しグループの姿をファンに見せることができなくなった。
グループという必然から、音楽的にも妥協を強いられ、衝突を繰り返し、個々のビートルは憂鬱になり、ビートルズは、ビートルズによって自壊、瓦解していった。

ジョンは自分の気持ちにも誠実であろうとした
社会が求める姿と自分たちが直面している内輪の現実の姿に大きなギャップができてしまい、ボス・ジョンは噓を隠すことができず、自分に誠実であろうとして自分のグループに終止符を打った。

ジョンは、金も名誉も自由も手にしたのに、心の苦痛は残ったままで、常に自分が何者であるかを探し、愛ある平穏な暮らしを求めていた。瞑想や薬では答えはなく、苦痛を和らげようとして、もっと強い薬へと自虐的にのめり込んでいった。次第に現実逃避が常習化し、「自分はキリストの再来だ」と妄言を吐くこともあった。

そして、心弱きジョンは求めていた理想の強き女性ヨーコに救われ、友情よりヨーコとの愛を確信した。苦痛のない愛ある平穏な普通の生活にしようと。

そして、1969年9月20日のジョンの不可逆的な決意発露により、ビートルズの前進は絶たれた。
1974年12月29日にジョンは、米ディズニーランドでメイパンが見守るなか、3人が署名した後、最後に「ザ・ビートルズ」の解散に関する法的文書に署名をした。

ジョンは最後に署名(証人はメイパンだけ)


そして復活する

解散公表から25年後の1995年にFree As A Bird、翌年Real Loveが、2023年にはNow And Thenが蘇り、レコード上での再結成によりビートルズは復活した。

ジョンによって葬られた「ザ・ビートルズ」だったが、ジョンの意思がヨーコを通じてポールへ伝わる。
復活するには4人の意思が必要だが、3人はジョンのかわりにヨーコからテープに託されたジョンの意思を受け取った。

こちら側の3人のビートルは彼の意思を汲み取りビートルズを復活させ、私はそのことを理解し全面的に受け入れた。この展開がなんとも不思議というか奇跡的であり、彼らの一大叙事詩を彩る新たなチャプターとして加わった。
2022年には映画Get Back も公開され1969年当時の姿も蘇った。

アンソロジー制作時、サセックス州にあるポールの家で
3人の撮影にジョンも加わる(リンダ撮影)。

世代と国境を越えた共通言語
彼らとの同世代は、そのときどきの苦楽を分かち、一緒にそれを背負って生きてきており、尊く素晴らしい時を共有した。自分の成長とともに、彼らの成長を確認できた。それだけに、ジョンとジョージの喪失はショック以上の痛みだったというのは想像に難くない。

私のように解散時に少しかすっただけの後追い世代は、解散時の記憶もおぼろげだ。その後ふたりの死はショックだったが、現在ではその痛みもジョンの言葉で昇華できた。
1962年10月、ジョンは盟友スチュが4月に亡くなった後、ビートルズが最後のハンブルグ公演を行った際に、スチュの恋人アストリッドに語っている。
「母親が死んだとき、人間の心はどうやって痛みを癒すのか、学んだのかもしれない。愛する人が死んでも、生きていかなければならないということを。人は過去には戻れないんだ。今を生きるしかないんだよ」。
しかし、ふたりの喪失は、只々、いまだに悔しくてしょうがない。

それ以降の若い世代は、もういないグループなのに彼らを受け入れ、きちんと理解し、本質を見抜いて追っている。

「ザ・ビートルズ」は、世代間、国境間を繋ぐ共通言語にもなって愛されている。

彼らを愛し続ける人がいる限り
ビートルズやその関係者に会ったり、見たり、話を聞いた、一緒に喋った、という体験を持った人は、その素晴らしい時間を他の誰かと共有したくなる。

何故なら、4人は恥じることなく堂々と愛や平和を歌い、世代と国境を超えて人々に幸せを届け、理想をより現実的な形に近づけてくれたからだ。彼らを素直に誇りにしたいという気持ちがある。
「ペンは剣より強し」、「武器ではなく花を」だが、彼らは音楽でそれを実現させた。

私にとってのビートルズは、曲もさることながら、4人とその関係者が織りなす人間模様の事実がドラマのようであり「小説より奇なり」だ。千両役者揃い踏みで、彼らの生き方は彼らの曲と相俟って、一大叙事詩となって魅せられる。
「それ違うでしょ」、「そこまで言うか」、「そうするか」、「それはないだろ」と、彼らの人生には解散前はもとより解散後も突っ込みどころ満載なのだ。
私は彼らに惹きつけられ、親戚でもないのにこの7月にリバプールの生家やお墓参りをして、自分の行動や生き方までも重ねてみた。
私にとってのビートルズは、もはや単なる音楽家とかロック・ミュージシャンなどという枠では捉えられない存在だ。

Peace of Mind
日常の束縛から解放された7月の旅を機に、今だから書ける私なりの「ビートルズが好きだ!」をこうして総括して記すことができた。

私にとっての彼らは人間だから神でも聖者でもないが、それでも無条件で全肯定してしまう。心の拠り所であり、Peace of Mindをもたらしてくれる。
そこに集う人々を幸せにしてくれる偶像であり、その偶像は私が死んでも死なない。

彼らを愛する人がいる限り、これからも彼らはまるで神のように復活を繰り返すと思う。否、パラレルワールドでは既にコンサートが開かれているかもしれない。

(了)

1974年に設置されたリバプール・マシュー・ストリートにあるマドンナの銅像と4人
(ジョンは右下)

※聖地巡礼の旅(7月)を機に拙文をまとめることができました。現地を訪れる際は彼らをよく理解する方にガイドしてもらうべきですが、マリー西澤さんはビートルズに特化したガイドさんで計画段階から丁寧なご対応をいただきました。


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