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”見えないもの””聞こえないこと”にこそ関心を持つ

…というタイトルですが、ホラーな話でもスピリチュアルな話でもありません。笑


「困ったら言うてな」「気になったら言ってくださいね」

僕自身、よく日常で使う言葉です。ただ、よくよく考えてみたら自分がホンマに困ってたときってそう言ってくれたからと話せただろうか?気になったら、と言われるが「気になる」状態になっているって自分自身で気づいているだろうか?とふと思いました。それよりは「今日なにしてたん」とか、「最近仕事で~してるって聞いたんですけど、どんな感じですか」とか、ゆるやかなクエスチョンを投げてコミュニケーションとってくれたほうが話せてるなぁと感じた。

もちろん、「困ったら」「気になったら」いつでも力になるからねということを言葉としてメッセージを出すことは大事で、その積み重ねはほんまになんかあったときに頼れるものになっていくことはたしかだと思うんだけど、この言葉があるから言ってくれるだろうという過度な思い込みをしていないか気を付けないといけない。表面的な部分だけを見ても分からないことがある。

それは別に困ったこととか気になることの話だけじゃなくて、「やってみたいことあったら言うてな」「思いついたら話してな」とかも同じようなことが言えると思う。だからといって、「やってみたいこと、ない?」という問い方だと、そんなん言われてもなぁ、、なんかあるかな、、、と詰まってしまう場合も。普段していることとか人から聞いた話とかを話しているうちに、あるいは昔のこと振り返ってみたり将来のこと夢想しているうちに、そういえばこういうのやったら面白いんちゃうかってふと出てきたりすることもある。

人間、意外とその辺はシンプルではなくて、見せてって言われても”見えない”ものがあったり、聞こえへん?って言われても”聞こえない”ことがあって、丁寧にコミュニケーションしていくうちにふっと見えてきたり、はっきりは見えないんだけどボヤっと見えたり、全然聞こえはしないんだけど音を出そうとしていることに気付いたりするんだと思う。

個人的にそういうことに気付くのは人と話している中で、だと思っていて、一人だとどうも考えが同じ方向性にしか巡らなくても、小一時間誰かと話したら全然違う発想が浮かんできたりする。それは、話す中で感情が揺れ動いたり、深堀り(質問)しあったり、共感したり、自分の視野では見えないことを相手が見ていて教えてくれたりするからだと感じている。だから、自分が「これが正解だ!」と思ったとしても、過度にそれを信じすぎずに相手なりの正解も聞いてみるみたいなことも大事にしたい。逆に自分が思う正解のことも大事にはする。大事にはするんだけど信じすぎない。意固地になって違うやり方を認められなくなっちゃうのは面白くないし、既に見えているものにしか関心がなくなってしまうというのは、無限にある”見えないもの”の存在に気付かないままになってしまう。


例えば僕が学生時代からいろいろ関わっている「ボランティア」についてもいえることがある。

僕は大学のボランティアセンター(以後、ボラセン)という、大学生とボランティア活動(現場)を繋ぐところで『コーディネーター』という役割で仕事をしているので、当然のことながら「ボランティアをしたい人はボラセンに来てね」と色々なところで発信をしているし、「ボランティアが必要な団体の方はボラセンに言ってくださいね」と伝えている。

ただ、この発信で顕在化する(実際にボラセンに足を運んでくれる)のは、「自分はボランティアがしたいんだ」「うちの団体はボランティアに来てもらいたいのだ」と相当自覚がある状態の方々が中心になる。もちろん、ボランティアってよくわからんけど、なんか面白そうだからとりあえず言ってみるか!という人もいるけれど、その場合でさえかなり言葉に対しての自覚がある状態。

でも実際のところ僕が学生時代ボランティアをはじめたのだって、ゼミのフィールドワークだったし、友達が「とりあえずやってみたら」と言ってくれたからであって、別にそこまでボランティアがしたかったわけではないのかもしれない。

「大学生の先輩が家を建築するしてると聞いて面白そうだと感じて、自分もやろうと思ったらそれがボランティアだった」とか、「公園でサッカーをしていたら小学生がやってきて、気付いたら一緒に遊んでいた。気付いたら毎週同じ日に小学生を指導することになっていた」という感じで後々振り返ってみると意識はしてなかったけどボランティアをしていた、みたいなケースもある。

だから、必ずしも「ボランティアをしたい人」という括り方の発信だけにしないように、ということは意識している。もちろん、したい人たちができる環境を整えるのは業務的にも優先度は高いことで取り組みつつ、なんか面白そうなことしてるから言ってみたらボランティアをやっているところだったとか、自分の話聞いてもらってたら自分のやりたいことが見つかった、みたいなことも創っていきたい。自分では”意識しないうちに”力が発揮できたり面白いことができるようになったり、話を聞いているうちに「なんかしたい」と衝動的に動くようになっていたり、そんな予想外のことが起きる面白味が魅力だと思う。

そんな風に、見える化する、聞こえる化する過程を生み出せるのが『コーディネーター』という役割の醍醐味だと感じる。よく「言語化しよう」と学生の皆さんに伝えているが、これはまさに言葉にしてみることで、自分の気付きや学びが可視化されていく過程ということになる。可視化されて他人に伝わることで、自分以外の誰かの気付きや学びにもつながる可能性があるのもまた面白いところなんだよな~。

とはいえ、見える化・聞こえる化・言語化にゴールはないし、またその過程だけにこだわりすぎると再び見えないものや聞こえないものに目を向けることを忘れてしまうこともあるので、これもまた過度に信じすぎないことは大事だ。

信じていいのは、自分という存在と、相手という存在の2つだと思っていて、どんな考えや価値観、言葉を持っていようと、自分と相手だけは心底信じて関わる。ただ、そこから表出されることについてはすべてではないし、正しいことも間違うこともいくらでもある。存在と表出されるものだけは分けて考えて、どんな時も存在だけは「否定しない」。

そのこともまた、大事にしたいことだなと思う。


最後に。今、感染症の流行で「”見えないもの”だから危険だ(こわい)」とよく聞くけれど、それを知らず知らずのうちにいろんなものにあてはめてしまって”見えない”から危険だとかこわいという、安易な結びつけ方だけで考えないように気を付けたいと思う。

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