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等しく順番を待つだけの世界、そして祈り。

いま頭の中に広がるイメージそれは、深い谷底とそこに突き出した一本の棒。人ひとりがやっと立っていられるくらいの太さで、しかも先端は谷の真上で終わる。谷底では無慈悲なまでに炎が轟々と燃え盛っている。棒のうえには今にもバランスを崩し転落してしまいそうな人たちが体を密着させて並んでいる。

先端に立つ人は落ちまいと必死に体をのけぞらせるが、二番目の人が背後からのプレッシャーに耐えきれず、その背中を突き飛ばしてしまう。先端の人は落下し、炎の中に消えた。どうなってしまったかはもう誰にもわからない。棒の袂の向こうに広がる地平には足の踏み場もないくらいの群衆が広がっている。

つまり棒に立つ人にはもうどこにも逃げ場がない。誰しもが必死に落ちまいとするが限られたスペースのなかでバランスを保つのがやっと。なかには棒の先端に届くまでもなく転落してしまうもの、運命を悟り自らそれを選ぶものさえいる。

われわれはただ順番に突き落とされるのを待つしかないのだ。

谷底を挟んだ反対側の地平には、必死の人々をただ傍観する人たちがいる。笑うもの、泣くもの、怒るもの、悲しむもの、それから無関心なもの。しかし、実はその地平からも棒が突き出しているのだが、いつ自分が谷底に突き落とされてしまうのか、彼ら彼女らはまだ気づいていない。

たくさんの人が谷底に突き落とされ烈火に放り込まれていく。たくさんの人が為す術もなくただそれを眺めている。逃げ出そうにも人が多すぎて互いに邪魔しあっている。ここはどんな人もただ順番に「その時」を待つしかない世界なのだ。

落下する人、それが大切な隣人であるかもしれない。その悲劇がいつわれわれに降りかかるのか、それは誰にもわからない。その可能性は日に日に高くなっている。もはや転落と炎は他人事ではないのだ。無関心を決め込んだり野次を飛ばした人たちにも、等しく。

しかし、たとえ隣人と共に飛び込むことができないとして(いや、できるかもしれないが)、すくなくともわれわれは隣人の魂に寄り添うことはできる、はずだ。それを弔い、いつか復活することに祈りを捧げられる。その時がきたら祝福することも。それが追い込まれてしまったわれわれ人間が最後にできることなのではないか。

いま頭の中に広がるイメージ。われわれが生きる現実の世界。

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