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「この割れ切った世界の片隅で」を読んで、世界は誰かに割られたのか、自ら割ったのか、ここは片隅なのか中心なのか。そんなことが頭を離れない。

WEEKLY OCHIAI のこの回を見て、もやもやが止まらなくなりました。

「子どもの教育格差」重要なテーマだよねぇ。自己責任って何かと叫ばれるよねぇ。何なんだろうねぇ。出演者の女子高生って、この子誰だろう?何でこの子が出てるんだろう?

なるほど、このnoteを書いた子なのかぁ。2万いいねってすごい反響だね。とても立派なことを書いていて、ありふれてると言えばそうとも言えるんだけど、何はともあれ一度読んで見てください。

まぁ、番組を見て、noteの記事を読んで、結局のところ、もやもやが止まらなくなりました。何かもやもやしませんか?別に何かを否定したいわけでもないけれども、何らかの違和感を感じています。

何かの違いがある状態を格差と言うか、分断と言うか、はたまた別の言葉を持ってくるのか。何かのモノサシを持ってきたときに、それによって測られた指標の優劣をおそらく格差とか言うんじゃないかなぁ?と思うんだけど、その優劣の価値観って本当にそれで良いの?人によっては、その価値観が逆だったり、全く無意味だったりすることもある気もする。例えば、都会育ちは田舎の野山で駆け回ることを望み、田舎育ちは都会の煌びやかな生活を望むような。金持ちに生まれたら普通を望み、普通に生まれたら金持ちを望むような。

いろんな環境とか、何とかが、良いに越したことはないと思うんだけど、全てが理想の良い条件となったときに、果たしてそれが本当に良いことなのか?という事について、肯定する気になれない。多分、これって程度の問題じゃないかと思うんだけど、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」っていうところだろう。

格差とか分断とかそういう言葉を考えたときに、それって相対的なものだよなぁと思うのだが、それを考えたときに自分が受けているというと同時に、他者をそうしているような気がしてならない。個人個人がどう感じるかを否定することをしたいのではないが、それにより対立構図を作っているようにも思える。

「人はその周りの五人の平均値だ」という言葉がある通り、社会的ステータスの近い人々は集まりやすく、自分の見えている物が世界の「ふつう」であると錯覚してしまいます。しかし、自分の見ている世界は社会のほんの一部にしかすぎません。

全くその通りだと思う。おそらく、昔はこの範囲で済んでいたから問題だと認識されなかったのかもしれない。しかし、今はこの範囲外が見えてしまうし、容易にリーチ出来てしまう。その時に、この範囲内に籠っていたい人もいるだろうし、外に飛び出たい人もいるだろうし、籠らせたい人もいれば、飛び出させたい人もいるだろう。社会としてどうあるべきか、というのもあるだろう。社会としてと考えたときに、一個人が社会がどうあってほしいかを語る場合もある。何かを語ったときには、個人同士のイデオロギーの対立になる場合もある、などと考えると、全てが胡散臭く聞こえてもくる。

自分が見てきた狭い世界の常識からしか人間は物事を判断できません。これは紛れもない事実です。大切なことは、どれだけ世界を見ようとも、「自分は視野が広い」「自分は物事が適切に捉えられている」なんて思わないこと。自分の見ている世界を疑い、謙虚になること。常に相手の背景を受け入れようとすること。自分が生んだ成果はすべて自分の努力のお陰だなんて思わないこと。

自分がこの年代で考えもしなかったことを、このような文章にして大変素晴らしいと思うし、これは完全に同意であるけれども、この逆だと(無意識にでも)考えている人がいることも、また事実だと思う。例えば、母子家庭の貧乏な家庭で育ち、バイトに明け暮れるも、必死に勉強して良い大学に入り、一流企業で出世して、いわゆる勝ち組になった!という人は、全て自分の努力のお陰で、環境のせいにするのは甘えだ!と言うかもしれない。これを否定するは難しいし、これを美談として賞賛している社会である。

片足を棺桶に突っ込んでいるような教育評論家が語り、子どもを東大に入れた親を賛美し、いったい張本人はどこへ行ったんだろう?と思える教育論。

結局のところ、教育って何なのだろう?というもやもやが残っている。

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