「○○な自分」と名前をつけず、「自分の感覚」をそのまま表現したい。
「書く習慣」という本を読んで、『何でもいいから、文章を書いてみよう』と思ってから…1カ月がたとうとしてる。
『何でもいいから、文章を書いてみよう』と思ったあの日から、実際にnoteやブログに書いた文章は、ほんの少しだけ。
少し前の私だったら、『書くって決めたのに…』と、口先だけで結果を出せなかった自分を責めてしまったかもしれない。
今だって、責める気持ちがゼロかというと…正直、よくわからない。
でも、『まぁ、いいのかな』と思ってる。
そう思うのには、1つの理由があってね…。
『何でもいいから書いてみよう』と思って書き始めたのに、その日に思ったことを何日か書いてるうちに、『これじゃない』と思うようになってしまったからなんだ。
私はきっと、『文章が書ければ何でもいい』とは思っていなくて。
自分の中で、「どうしても表現したいもの」があるんだと思う。
それを私はずっと、「本当に書きたいこと」とか「セラピストだった頃のこと」と言ってきたんだけど…、それは的を射た表現ではないのも感じてた。
ハッキリと言葉にできないから、少しでもそれを言葉にしようと思って、なんとなくぼや~っとした言葉にしてるだけ。
だから、いざ『書こう』と思って行動に移すときに、何かが違う感覚があった。どう動いていいのか、何を書いていいのかがわからなかった。
確かに、「本当に書きたいこと」を書きたいと思ってるし、そのためには「セラピストだった頃のこと」も書くことになると思う。
だけど、それはほんの一部であって…、1であって100じゃない。
私は「セラピストだった頃のこと」も書きたいけど、セラピストではなかった頃のことも書きたいのだ。
子供の頃のこと、学生時代のこと、セラピストを休職していた頃のこと、ブログを書き時始めてからのこと、家族・友人・恋人とのこと…。
書きたいことがたくさんある。
私はただ、自分の感覚を表現したいんだと思う。
今までも何度も何度も『自分の感覚を表現したい』と思ったし、そう言ってきた。
だけど、自分の感覚を表現するって、すごく難しく感じてたんだ。
それはきっと、『言葉にしなきゃいけない』と思ってたから。
たぶんね、私の今までの人生の中で、『自分の感覚を表現できてる』って感覚が強かったのが、セラピストとして活動している時期だったんだと思う。
セラピストになる前は、自分の感覚を自覚していなかったり、自分の感覚を使うことを『悪いこと』とか『普通じゃない』って思ってたんだ。
だからずっと、自分の感覚を制限して生きてきたし、それでも外に出てしまう自分の感覚を隠してごまかすことに必死だった。
そのために、自分の感覚を鈍らせて、何も感じないようにしてた。
いいことも悪いこともなくて、好きなこと…というのも、あまりなかった。
セラピストになったらさ、
自分の感覚を大切に扱ってくれる人たちがいて、自分の感覚を受けいれてくれる人たちがいて、自分の感覚を必要としてくれる人たちがいて、私の感覚を表現できる環境があった。
私は初めて「自分の生きる場所」を見つけたような気がした。
誰かに合わせた自分ではなくて、自分らしさを、自分の感覚を表現できる場所を見つけたような気がしたんだ。
だけどね、それは永遠に続くようなものではなくて、だんだん形が変わっていくんだよね。
『自由だ』と思っていた場所に、実は、『制限』があったことに気づく。
自分の感覚が強くなればなるほど、『もっと自由に表現したい』という気持ちは強くなる。
そのわずかな制限が苦しくなって、『もっと自由になりたい』『もっと自分の感覚を表現できる場所に…』って。
いつの間にか、「自分の感覚を自由に表現できる場所」はなくなっていて…、『あぁ、やっぱり自分で作っていくしかないんだな』って思うようになった。
だけどさ、自分の感覚を『悪者』扱いして否定し続けてさ、『普通じゃない』と思い込んでいてさ、『人には知られてはいけない』って本気で思ってたんだよね。
それを受け入れてくれる人たちがいることを知っても、私はどうしても「家族」に知られることが恐かった。
自分の感覚を、自分がやっていることを…。
『そんなことやってるの?』って陰で笑われることも、『頭がおかしいんじゃないか』と心配されることも、失敗や成功するまでの道のりで『ほら、お前には無理だっただろう?』『もっと普通のことを…』ってされるもの。嫌だったし、恐かった。
『失敗は許されない』と思ってるから、行動に移せなかった。
自分で作っていくこと…なんて、なかなかできなくて。
そこにはただ、「口だけで何もできない、ダメな自分」がいるような気がしてた。
でもさ、『何とかしなきゃ』って必死にもがいてきた、『人生の汚点』のように感じていた時間。
それが、実は新しい一歩を踏み出す準備で…、たぶん、これから自分の感覚を表現していく中で、すごく大切なモノだったことに気づいた。
きっと、ここで得たアイテムがなければ開けることのできない扉、出会うことのできない人たちがいるんだろうなって。そんな感じ。
…、ちょっと話が脱線してた(^^;
私が『自分の感覚を表現したい』と思うのは、「セラピスト・家族・友人・恋人・就活・ブログ…とか」そういうカテゴリじゃないんだよね。きっと。
例えば、
マッサージしてる時の感覚や、ヒーリング・カウンセリング・コーチング。
HSP、エンパス、(ADHD?)、感覚的、スピリチュアル、優しさ、共感力…。
その「自分の感覚」というやつを、いろんな呼び方で呼ぶことがあると思う。
実際に『なんて表現すればいいんだろう?』と思っていた頃、たくさんの言葉に出会ったし、いろんな人たちにいろんなことを言ってもらった。
だけど、『なるほど』『そうかも』と思う反面、どこか違う『違和感』のようなものを感じてた。
きっとね、「自分の感覚」の一部分を表現するような言葉はあっても、その「自分の感覚」を表現して説明してくれるような言葉なんてないんだよね。
けど、私が『表現したい』と思ってるのは、『○○な自分』ではなくて、『自分の感覚』なんだと思う。
私はずっと、『これを言葉にしなきゃいけない』と思ってた。
そうやってたくさんの人たちに言われてた。
だけどね、その言葉にできない感覚を、そのままで表現してきたい。
私は、自分の感覚をそのまんま表現したい。
それはブログのことだけじゃなくて、自分の人生において。
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