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悔やみつつも教訓今に 石巻市八幡町・高須賀正忠さん(44)

 石巻市八幡町に住む高須賀正忠さんは、灯油販売や住宅設備などを手掛ける㈱高須賀商店の5代目。店は約130年にわたって地域と共に歩んできた。東日本大震災では事務所が津波に飲まれ、自宅も大きな被害を受けた。その中で唯一無事だったタンク車を使い、被災した地元を回って燃料を届け続けるなどした。

 店は明治23年に創業した老舗。燃料販売の店舗としては市内で最も古く、地域の中で歴史を刻んできた。高須賀さんは「あと半年で10年。悔やむこともあったが、そこから得た教訓が今に生きている」と話す。

 あの日、高須賀さんは仕事で市内を回っていた。これまで経験したことのない激しい揺れに襲われた後、すぐに「津波が来る」と直感。震源地を調べ、そこから割り出される津波到達までの時間を考えて、取引先にあるガスの緊急停止作業に向かった。常に津波の到達を考えながら、作業終了後はすぐ日和山に車ごと避難した。

 日和山を下りたのは翌日。まずは徒歩で情報を集め、事態の把握に努めた。八幡町の自宅は1階部分が壊滅したため、2階部分で避難生活した。事務所も壊滅し、仕事で使う工具や車もほとんどが流されていた。

高須賀正忠さん

「これから20年、30年と教訓を伝えていかなければ」と話す高須賀さん

 「家族は無事だったが、避難していた社員1人が低体温症で犠牲になってしまったのは、今でも悔やまれる。悪夢のようだった」と当時を振り返る。自宅での避難生活は地域の4世帯20人が一つとなり、乗り切れたという。

 震災後は地域の各世帯で設備復旧や燃料確保が急務となり、高須賀さんは流された工具などを回収し、対応に精力を傾けた。事務所の電話回線が不通になってしまったため連絡がなかなか取れず、客からは「もっと早く来い」と怒鳴られることもしばしばあった。灯油の配送も量を絞らねばならず、不満をこぼされたという。

復興完遂見据えれば 7段目

 震災から9年半が過ぎ、自宅は復旧し、事務所も構えた。最大を10段とする復興の階段を問えば「7段程度だと思う」と話す。「震災を教訓に沿岸部も内陸部も一つになり、前に進むことが復興の完遂になる」と強調する。

 高須賀さんは「被災直後のさまざまな経験から、内陸部との連携など多くの教訓が仕事の中に生かされている」という。社員の防災教育のみならず、訓練や備蓄など災害に対する意識は常にある。

 「震災から今まで波乱の連続だった。しかし、そこから後世に伝えていくことの重要性も痛感した」と思いを語る。地域に根差してきたからこそ、多くの命を救うための防災意識も強い。

 昭和35年のチリ地震津波を経験した世代は震災当時「あの時、ここは大丈夫だった」と考える人も少なくなかった。経験則が人の行動や判断を鈍らせるのは事実であり、東日本大震災では避難が遅れる要因の一つにもなった。

 「想定外は常に起こると考え、行動しなければならない」。高須賀さんは復興の完遂を見届けるため、きょうも地域を駆け回る。【渡邊裕紀】


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