見出し画像

生活再建で一息 冠水被害にため息 石巻骨髄バンクの会代表 小野喜代人さん

 東日本大震災の発生から今月11日で10年半が過ぎた。震災を知らない世代も増え、コロナ禍で伝承活動も容易ではないが、経験から伝え、残す言葉はたくさんある。それは「あの日」と向き合った一人一人にしかできないこと。改めて問いかけてみた。「復興を最大10段の階段で例えれば、あなたは今、何段目に立っていますか」。

ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 大正9年創業で、造船業で名をはせる老舗の「ヤマニシ」も東日本大震災では大打撃を受けた。石巻市西浜町の造船ドックに隣接する事務所で働いていた小野喜代人さん(69)は「地盤が砂地だったから揺れに揺れた」と振り返る。

 まもなく津波が来るとの情報があり、丈夫な建物の2階に駆け上がった。外を眺めていたら「引き波の後、すごい渦巻きで黒い波が入ってきた」。駐車場にあった300台近い車はあっという間に水没。そればかりか、1週間後に進水を控えていた2万トンの新船が、あれよあれよという間にレールからはずれて流された。

復興の階段・小野さん3

津波で陸地に乗り上げた2万トンの新船

 身動きが取れない状況の中、日が暮れていく。電気系統は全滅。何人かが持っていた懐中電灯を照らし、建物の屋根に避難した50人近い人たちを部屋に入れる作業が始まった。その夜は一睡もできなかった。

 翌朝、腰まで水に浸かりながら、徒歩で約3時間かけて住吉中学校にたどり着いた。前日午後7時ごろ、妻の自子(よりこ)さん(65)からかかってきたケータイが一瞬つながり「住中にいるから」という声が手掛かりだった。12日昼ごろ、住中で夫婦は再会。無事を喜び合った。2人は3年1組の教室に収まり、小野さんはここでリーダーを務めた。

 幼稚園勤務だった自子さんは、とっさの判断で子ども用にとってあった牛乳やティッシュペーパー、使い捨て手袋、ブルーシートなどをかき集めて持ち込んでいた。「倒れた棚からどうやって持ってきたのか。一カ所にまとめて置いておくのは大事だね」と話した。

 小野さん夫妻が、初めて食べるものを口にできたのは震災から4日目。桃生の和菓子屋からの差し入れだった。

 中央一丁目の自宅に戻ったのも4日目。築60年ほどの家は残っていたが、1階の天井近くまで浸水。リフォームしても住めるような状態ではなかったという。

復興の階段小野さん

震災後に飼い始めた愛犬を抱く小野さん

 「位牌だけは見つけたい」と思っていた自子さんが、真っ黒な漂流物の山をかき分けると、手にひっかるものがあった。3歳の時に白血病で亡くなった次男哲史さんと小野さんの両親の位牌が並んでいた。息子を亡くす以前から、「石巻骨髄バンクの会」の代表として活動していた小野さんは、住中に灯油を届けてもらうなど全国のバンク仲間にも助けられた。

孤独死など諸課題多く 7段目

 5月に避難先の住吉中体育館を出た後、仮設住宅の抽選がなかなか当たらず、大街道のアパート暮らしを経て、元の家のすぐ近くに一軒家を再建して5年。どうにか落ち着いた生活を取り戻し、復興の階段は「7段目くらいかな」と小野さん。大雨ですぐに付近が冠水するなど不満は解消されていない。

 「復興住宅などハコものができたのはいいけれど孤独死の問題とか、震災遺構の管理費のしわ寄せがこないかとか、課題はある」と話す声は重い。

 「がれきだらけの街の中で、ご遺体が横たわっているところを『何もできなくてごめんね』っていう気持ちで通り過ぎるしかなかった光景はこの先も忘れることはない」(自子さん)という言葉に、小野さんは「3月11日は忘れてはいけない日だと思いますね」とつぶやいた。【本庄雅之】


現在、石巻Days(石巻日日新聞)では掲載記事を原則無料で公開しています。正確な情報が、新型コロナウイルス感染拡大への対応に役立ち、地域の皆さんが少しでも早く、日常生活を取り戻していくことを願っております。



最後まで記事をお読みいただき、ありがとうございました。皆様から頂くサポートは、さらなる有益なコンテンツの作成に役立たせていきます。引き続き、石巻日日新聞社のコンテンツをお楽しみください。