真珠湾攻撃から80年 惨禍の上に成り立つ平和 私設資料館開設の佐々木さん
昭和16年12月8日、旧日本軍が米国のハワイオアフ島真珠湾にあった太平洋艦隊や基地に奇襲を仕掛けた「真珠湾攻撃」からあすで80年を迎える。米海軍の軍艦や戦闘機を撃墜するなど戦果をあげた一方、原爆投下など日本が苦境に追い込まれる呼び水となった。石巻市北村の佐々木慶一郎さん(74)の私設平和資料館にも、当時の隊服や新聞が並ぶ。「なぜ日本は奇襲を仕掛けなければならなかったのか。ある意味では終戦以上に開戦日の方が重く感じられる出来事」と、節目を考える。
佐々木さんは開戦の背景について、「中国進出を進める日本に対し、米国や英国が警戒を強め、両国が中国に武器などを支援し続けたことで日中の戦争が泥沼化していた。これを受け、日本は米国の主力戦力が集まる真珠湾への奇襲を機に、講和を目指す考えがあったのでは」と考える。
真珠湾攻撃では、南雲忠一中将の旗艦「赤城」に率いられた機動部隊が8日未明に真珠湾付近へ移動。午前6時に第一次攻撃隊183機、同7時過ぎに第二次部隊167機を出撃させ、多くの戦艦が寄港していた真珠湾を仕掛けた。雷撃隊や水平爆撃隊が主力戦艦に集中攻撃を与え、急降下爆撃隊や戦闘機隊は飛行場などを急襲。米太平洋艦隊や航空機の80%を使用不能とし、有名な「トラトラトラ」(われ奇襲に成功せり)の打電に至った。
この真珠湾攻撃では、宮城県出身の鈴木三守大尉(戦死後中佐)、佐野清之進二飛曹(同一飛曹)が最前線で戦いに身を投じていた。鈴木大尉は中田町出身で佐沼中学(現佐沼高)の卒業生。第一集団特別攻撃隊(雷撃隊)員で、航空母艦「加賀」から第一次攻撃隊として出撃。敵艦600メートルまで近づき、魚雷を確実に命中させたが、離脱の際に撃ち落されたという。佐野二飛曹は、制空隊として零式艦上戦闘機43機で飛行場を攻撃し、空中戦で戦死した。
米軍の被害は戦死が軍人2335人、民間人68人。戦艦8隻、巡洋艦2隻、航空機も413機中約300機を喪失となった。ただ、日本軍が狙っていた米空母「エンタープライズ」は湾内におらず、燃料貯蔵施設や大規模船舶修理施設にも被害を与えられなかったこともあり、米軍に早期の立て直しを許した。
また、日本の宣戦布告通告が攻撃開始から1時間近く遅れて伝えられたこともあり、「卑劣なだまし討ち」と米国世論の憤激に油を注ぎ、「リメンバー・パールハーバー」など代表的な対日戦標語が生まれることに。米国の激しい怒りを買った日本は、ミッドウェー海戦の大敗北など強烈な反撃を浴び、制空・海権を失って、破局に向かうこととなった。
■戦争の記憶受け継ぐ
佐々木さんは、資料館から当時の軍服や連合艦隊司令長官だった山本五十六からの感状、戦況を報じた新聞を抽出し、11月12日から展示コーナーとして開放し、県内外からの見学者を受け入れた。
平和を重んじる現代となったが、佐々木さんは北朝鮮など近隣諸外国に危ない雰囲気を感じている。「先の開戦から終戦まで、日本は自国が勝っていると嘘の情報を流した。情報公開を徹底し、日本の置かれた立場を教えなければ、同じ過ちを繰り返す」と危惧する。
加えて、戦争体験談を受け継ぐ人々の高齢化も懸念する。「戦争を経験した90代が減り、体験談を聞いた我々70代が次の世代に語り継がなければならない。最近では、日本と米国が戦争したことも知らない人がいる。近現代史をしっかり指導してこなかった日本の教育も悪い」と指摘。
国際化の中で、ビジネスや留学、観光などで他国に足を運ぶ機会が多い現代。「過去に日本と他国がどういう関係にあったか。最低限自分の国の歩みは知っておくべき。足を踏んだ人間は忘れても、踏まれた人間が忘れることはない」と語った。
その上で「真珠湾攻撃からまだ80年。終戦から76年続いている日本の平和は、無念の思いで死んだ300万人の犠牲の上に成り立つ。12月8日は平和を考える日に」と呼び掛けた。【横井康彦】
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