見出し画像

心豊かにこれからの人生 1人暮らしもう慣れた 津田京子さん

 「これからの人生は心豊かにすること、お世話になった人々への恩返しをすること、自分のできることは何でもして生きていく」

 こう宣言したのは東日本大震災から約1年後の3月18日。他の被災者約100人と共に東京都銀座で披露したミュージカルのせりふの一部だ。大曲浜にあった自宅は津波で全壊。33年連れ添った夫の義範さん(当時59)が犠牲となり、子どものいない京子さんは1人になった。

 震災当時、仕事でいた石巻市蛇田地区で地震に遭遇。津波のことなど考えず、自宅に向け車を走らせた。渋滞を抜けてようやく国道45号に出ると、すれ違う車は1台もない。定川が決壊し、通れなくなっていたためだ。後から思えば、渋滞にはまって助かった。

 蛇田地区に戻り、車内で一夜。夫の安否は分からず、夜通し聞こえるサイレンが不安をかき立てた。翌日、自宅に行こうとし、途中で話し掛けられた。「大曲浜は壊滅です。戻ってください」と。

義範さんを思い返す

 石巻市の実家に身を寄せ、3日目に壊滅状態の大曲浜へ。避難所でも夫と会えず、身内からは「もう諦めろ」と言われた。再会できたのは35日目の4月15日。小野体育館の遺体安置所だった。

 夫が見つかったのは自宅から離れた矢本地区で、車が見つかっていた場所の近く。海水を飲んでいなかったが、両側のろっ骨が折れていた。三交替の工場に勤めていた義範さんは震災当時、自宅に居た。体格が良く、何が起きても動じない人。「それでも車で避難しようとし、乗り捨てた後に何かがぶつかったのかも」と推察した。

 市外のアパートで3カ月過ごした後、大塩地区の仮設住宅に入居。そこで募っていたのがミュージカルの出演者だった。震災を伝え、世界中からの支援に感謝を伝える内容。「私だけ生きて良いのか」と悩み続けていたが、稽古を通じて「与えられた命だから前向きに頑張りたい」と思えるようになってきた。

「思い出したくないが忘れられもしない複雑な心境」と京子さん

 仮設住宅を見守るサポートセンターの一員として5年間働き、現在は障害者福祉施設に勤める。集団移転地に持ち家も建てた。小さな庭でガーデニングを楽しみ、友人とのたまの旅行や花見が息抜き。「一人にはもう慣れた」と言う。

 京子さんは4日、「心の復興13回忌ミュージカル100通りのありがとう」と題した舞台に立つ。今度は地元の東松島市で。仕事がある今回は以前のように練習に参加できていないが、「皆、前向きに生きてほしい。自分でできる限りの恩返しがしたい」との思いを伝えるつもりだ。

 夫が生きていたら今はどうだろうかと想像する。「夫を守れるのは自分だけ。生きている限り供養し続けたい」と言い、毎日、線香をあげて仕事に向かう。【熊谷利勝】





最後まで記事をお読みいただき、ありがとうございました。皆様から頂くサポートは、さらなる有益なコンテンツの作成に役立たせていきます。引き続き、石巻日日新聞社のコンテンツをお楽しみください。