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石巻日日新聞

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石巻市・東松島市・女川町の話題を掲載している夕刊紙「石巻日日新聞」のnote版マガジンです。とっておきの地域情報と過去記事などのアーカイブ。無料と有料記事があります。ぜひぜひフォ…
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#津波

続けることで原動力に

「いのちの石碑」建立メンバー 母校の女川中で講演  自然災害や津波から1千年先の命を守るため、女川町内に21基の「いのちの石碑」を建立した東日本大震災当時の中学生。そのメンバーが11日、女川中学校で震災を考える講演を開き、1―2年生70人が受講した。震災の記憶を風化させることなく、後世につないでいく大切さを学んだ。  石碑建立は、発災直後、女川一中(今の女川中)の1年生(現在24―25歳)が取り組んだ伝承活動。町内21カ所の浜の津波到達地点より高い場所に石碑を建て「有事は

東日本大震災から13年 名を取り戻し帰るべきところへ

身元不明の遺骨27柱  2万2千人を超す犠牲者を出した東日本大震災から11日で丸13年となった。描いたまちの将来像は復興という形で具現化され、にぎわいも戻った。あの日を物語る場所は少なくなったが、失われた命の重さは年月を重ねても変わることはない。  暮らしと営みが一瞬で奪われ、大切な人を失った。生きたくても生きられなかった無念の命があった。「どうしていますか」と心で問う。在りし日の面影を浮かべ、深く祈る。今を生きる私たちだからこそ、できることはある。  石巻市南境の第二

「楽観的考えがあだに」 大竹伊平さん

屋上避難とっさの判断  東日本大震災の発災時、石巻市南浜町三丁目でクリーニング店を営んでいた大竹伊平さん(65)。店舗が津波に襲われ、屋上に避難したことで一命を取り留めた。「偶然助かっただけ。津波が来るとは思っておらず、楽観的に考えていたのがあだになった」と話す。  震災後は避難所から仮設住宅、復興住宅へと住まいを移し、現在も地元でクリーニングの営業をしながら生活している。「津波は甘く考えてはいけない。教訓が胸に刻まれている」と災害への備えを痛感している。  大竹さんは

「最悪想定し、最善の行動を」 須藤扶美子さん

石巻帰省中に津波遭遇  仙台市在住の須藤扶美子さん(61)は、海から700㍍ほどの石巻市緑町の実家で津波に遭遇し、流されるかもしれない家の2階で一晩をやり過ごした。生かされた者の使命として、教訓を伝える活動をしている。  須藤さんは震災当日、休みで帰省。運転免許はなく、仙石線で仙台に戻るため、午後2時40分ごろに石巻駅に到着した。発車待ちの車内の座席に座ってすぐに大きな揺れ。停電で電車は動かず、携帯電話も通じなくなった。津波は頭になく、実家にいれば夫が迎えに来ると考え、と

盆の夜に紙灯籠ともす 大川小 おかえりプロジェクト 

 追悼と交流で地域住民が集う「第2回おかえりプロジェクト」が13日、震災遺構の大川小学校=石巻市釜谷=で開かれた。中庭に震災当時の在校児童数と同じ108個の紙灯籠を並べたほか、校庭や昇降口などに計360個をともし、震災で犠牲になった人たちに静かな祈りをささげた。 卒業生らが犠牲者追悼 大川小学校の卒業生を中心に作る「Team大川未来を拓くネットワーク」(只野哲也代表)が主催。震災の支援活動などで、全国各地と交流したことが縁となり、同ネットワークが昨年初めて開いた。  今年

当たり前の幸せ感じて はなちゃんのランドセル 大川小から門脇に出張展示

 東日本大震災から12年4カ月となった11日、石巻市の大川小学校を襲った津波で行方不明となった〝はなちゃん〟のランドセルの展示が、民間の伝承交流施設「MEET門脇」=石巻市門脇町=で始まった。震災遺構大川小敷地内の大川震災伝承館に展示されていたもので、「多くの人に見てもらいたい」と家族が出張展示を希望した。  展示されたのは震災当時4年生だった鈴木巴那さんの赤いランドセル。中に入っていたノートや教科書、図書室で借りた本もそのまま展示している。  6年生だった兄の堅登さんは

車使った初の避難訓練 東松島市 新たな津波浸水想定受け

 東松島市は4日、本年度の総合防災訓練を行った。震度6強の地震の後に大津波警報が出されたと想定。市民や自主防災組織、消防団などが初動対応を実践した。原則、徒歩避難だが、県が発表した新たな津波浸水想定を受け、市は最寄りの避難所まで1キロを超す沿岸部の一部住民を対象に初めて自家用車を用いた訓練を展開。内陸部に設けた駐車場に次々と車が集まり、住民からは「状況に応じた避難手法は必要」との声も聞かれた。  訓練は「自分の命を守る最善の行動をとる」がスローガン。市は、昨年5月に県が発表

女川町 4年ぶり津波伝承復幸男 「逃げろ!」の合図で高台に 町内外106人全力疾走

 女川町で25―26日、「おながわ春のまつり」(同実行委主催)が開かれた。津波襲来時に高台避難の教訓を伝える「津波伝承女川復幸男」では、参加した町内外の106人が町役場南側から女川小中学校校庭までの約250メートル(高低差約25メートル)を駆け上がった。1位の小島涼太郎さん(22)=福島県福島市=に「1番復幸男」の称号が与えられた。  春のまつりは、4年前にファイナルを迎えた「女川町復幸祭2019」の思いを引き継いだ企画。道の駅おながわ開業2周年に合わせ、コロナ明けの観光回

ボランティアがいたから 物心支援に尽きぬ感謝 石巻市渡波 高橋 のり子さん

 石巻市渡波字栄田にある㈲高橋電気商会の高橋のり子さんは発災当時、事務所内で強い地震に襲われた。「柱にしがみつくのがやっと。上からエアコンが落ちてこないかおびえていた」と振り返る。大津波警報を受けて内陸に孫を連れて避難。この間、無人の店に津波からの避難者が垂直避難先を求めて押し寄せ、30―40人が2階に登って難を逃れた。「店に命を救われた」と、12年過ぎても避難者の感謝は絶えない。  同商会は昭和49年創業。石巻市立女子商業高校や渡波中学校の真向かいで、中間を国道398号が

東日本大震災から12年 言葉をつなぎ 命をつなぐ

■難しさ増す震災伝承 東日本大震災の発生から11日で丸12年を迎えた。仏教では十三回忌となり、人々は特別な思いで故人に心を寄せた。あの日、突然訪れた別れ。残された人たちは心の行き場に迷い続けた。大切な人の死を受け入れることができず、あいまいな喪失を抱え続けたまま年月が流れた。  震災を乗り越えて商いを始めてもコロナ禍で苦境に立たされ、泣く泣くのれんを下ろす店もあった。コロナは世界中に拡散し、気づけば他の諸課題は陰に隠れた。復興、再生の原動力は人だが、ウイルスはそのつながりを

霊前に誓った古里復興 一線退き気ままに生活 石巻市南光町 田倉 晴昌さん

 東日本大震災の津波で、石巻市南浜町にあった自身が経営する電気設備工事の会社と自宅が流され、一緒に働いていた長男の昌実さん(当時37)を亡くした。翌年の市の追悼式で「歴史ある石巻の復興に希望を持って立ち向かうことを霊前に誓う」と遺族代表の言葉を述べ、10年余り会社の継続に奔走。80歳を契機に経営から退き、畑を作ったり、木を植えたりして気ままに過ごす。  震災当時は石巻電気事業協同組合の理事長を務めており、会議でいた石巻市大街道地区の組合事務所で地震に遭った。すぐに戻って来る

もっと親孝行したかった 第二の人生は人つなぎ 石巻市鋳銭場 木村 正さん

 「十三回忌か。もっと親孝行したかったな」。石巻市鋳銭場の木村正さんは天を仰いだ。「こうして上見ると、3月11日の星空を思い出す。なぜあんなにきれいだったのか」とつぶやく。  当時、同市大瓜の特別養護老人ホーム第二和香園で事務長を務めていた。市内であった会議の帰りに震災に遭遇。波打つ道路。「このまま車が横転するのでは」とハンドルを握る手に力を込めた。施設は被災したが、入所者を含め、そこにいた職員も無事だった。  翌日、内陸の稲井経由で女川町浦宿まで来ると風景が一変。車を置

感謝受けても残る後悔 住民救った私設避難所 佐藤 善文さん

 東松島市野蒜地区には、震災後から「おさとうさま」として地域内外に親しまれる里山がある。この山は発災の12年前に新町地区に住んでいた佐藤善文さん=野蒜ケ丘二丁目=が購入し、有事に備えて整備を続けてきた私設避難所だ。いつ来るかも不明な災害に備えた個人での避難所整備。周囲にとって当時は理解しにくいものだったが、津波襲来時に70余人もの命を救い、今では日頃の備えの重要性を語りかける地となった。

¥0〜
割引あり

心豊かにこれからの人生 1人暮らしもう慣れた 津田京子さん

 「これからの人生は心豊かにすること、お世話になった人々への恩返しをすること、自分のできることは何でもして生きていく」  こう宣言したのは東日本大震災から約1年後の3月18日。他の被災者約100人と共に東京都銀座で披露したミュージカルのせりふの一部だ。大曲浜にあった自宅は津波で全壊。33年連れ添った夫の義範さん(当時59)が犠牲となり、子どものいない京子さんは1人になった。  震災当時、仕事でいた石巻市蛇田地区で地震に遭遇。津波のことなど考えず、自宅に向け車を走らせた。渋