見出し画像

縄文の魂を持った織田信長!天下統一にかけた思いとは! 本能寺の変の謎に迫る! 賢者は歴史に学ぶシリーズ⑥

平和な争いのない縄文時代が
宇宙人ナーガの策略で終わり
権力と争いの時代になりました。
日本列島を支配するために色々と
手を尽くした宇宙人ナーガ。
でも、人間たちが好き放題、権力争いを
はじめて手がつけられなくなりました。
前回読んでいない方はこちらから。

そして、世は戦乱の時代へ。
戦国時代の突入です。
その時代に平和を好む縄文の魂を持った
ある人が生まれました。
その人があの有名な織田信長です。
織田信長といえば「大うつけ」と
言われていたエピソードが有名ですよね。
突然ブツブツと小言で何かを言っていたり
誰かと戦っているみたいに刀を振り回したり
小さいころから奇行が多かったそうです。
実は、織田信長には人には見えないものが
見えていました。
周りの人にも見えている、聞こえていると
思っていたのですが
実際は織田信長にしか見えず
それが周りの人の目には奇行に映ったのです。
なぜ、人には見えないものが見えたり
聞こえたりしたのか、
それは織田信長が「超感覚」を
持っていたからです。
そして、日本列島にいた縄文人達が
弥生の人達の体制に飲み込まれる中
その流れに組み込まれずに隠れて生きることを
決めた縄文人たちがいました。
その人たちをサンカといいます。
織田信長はそのサンカの人だったのです。
サンカは血筋ではなく、エネルギーで
つながっている人のことをいいます。
所有ではなく、争いではなく
みんなの平等と平和と調和を好み
縄文の頃の波動を受け継いだ人たちを
サンカといいます。
織田信長は、織田家の武士の生まれですが
その波動を好んだサンカでした。
そして、縄文の頃のような戦争のない
平和な世の中にするために
豊臣秀吉と徳川家康と手を組んで
天下統一を目指しました。
ちなみにこの2人もサンカです。
サンカはただ逃げ回る人たちではなく
表に出る必要があるときは出る人たちなのです。
そして、天下統一をして、戦争もなく
庶民も豊かで自由な江戸時代が260年も
続きました。このことは、彼らが自分たちの
権力だけを求めていなかったことを
表していませんか。
江戸時代が悲惨な時代でなかったことは
このあと庶民の生活の様子を通して
詳しくお伝えできればと思います。

話を織田信長に戻しますね。
織田信長が天下統一を目指そうと思ったのは
ある出来事がきっかけでした。
それはかけがえのない友の死でした。
「変わり者、うつけ者」
と呼ばれていた幼少時代
その友は織田信長の理解者であり
心の支えでした。
ただ、その友は百姓の子どもでした。
身分によっては命が軽くあしらわれるそんな時代。
織田信長は、その子とただ遊んでいただけなのに
「武士の子と百姓の子では身分が違う
なぜ一緒にいるのか」とずっと言われていました。
あるとき、急ぎ馬
(大事な要件を殿に伝えるための武士)の前を
その友が横切り邪魔をしたというだけで
馬に蹴り殺されてしまいました。
そのときにその武士が言った言葉
「百姓の子せがれ1人、どうってことない」
織田信長は思いました。
百姓も、武士も命は同じ。
馬に蹴り殺されていい命など決してないと。
身分の違いで命の価値が決まってしまう世の中。
そんな世の中を壊し、平和な、みんなの命が
大切にされる世の中をつくりたい
そう強く決心したそうです。
でも、ときは戦国時代。
天下統一のためには武力という手段の
時代でした。
「無駄な殺生は避けたい」
そう考えた信長は
自分が鬼になることを決意しました。
なぜなら、ただ強くなるだけでは
力自慢の人たちが
織田信長を倒して名を上げようと
無駄に戦に挑戦されてしまう。
そこであいつは怒らせると
何をしでかすかわからない
鬼のような奴と思わせることが大事でした。
最初から相手の戦意をくじくことで
無駄な戦をしなくても済むと考えました。
「鬼」のイメージが強い織田信長でしたが
実際は繊細で優しい人だったそうです。
じゃあ、織田信長が弟を殺したエピソードは
どうなんですか?と思いますよね。
実は、弟は殺されていなくて、織田信長と
弟2人で組んだ自作自演の演技でした。
織田信長が実の弟を酷い殺し方で殺したと
世間で認知させ鬼と思わせるために。
その当時は狂気も実力のうちとされていました。
鬼だけど戦は強い。
実力は誰もが認めていました。

信長についていけば勝利できると
思った人たちも多く、無駄に敵をつくらず
従う人を増やしていきました。
そして、織田信長は
素直に自分の本音をさらけ出し
熱く思いを語り、口だけではなく
自ら動く人でした。
それが、人の心を掴み動かしていました。
でも、本願寺での戦いは?
戦に関係のない児童の首まではねたらしい
という話があります。
これは、歴史のねつ造です。
彼の目的は平和で平等な国を創ることなので
関係のない人を巻き込んで殺したり
残忍なことはしませんでした。
武士の巻き添えで嫌な目にあっている
庶民をなんとかしたい
そんな思いで決意した天下統一。
だから、関係ない人を傷つけることは
信長の理念に反します。
そして、武士の戦に関係のない農民を
巻き込まないため、戦のための
精鋭プロ集団をつくりました。
当時の戦は戦を知らない農民まで
駆り出される時代。
鍬を持って農業をしていた人が
ある日、戦の人数が足りないからと言って
戦に巻き込まれていました。
大将や上の人たちは安全な場所で指示だけをして
関係のない農民を実戦の危ないことに
向かわせることは大反対だった信長。
「農民の命を軽々しく考えている!
そんなことはありえない!」と思っていました。
そして、信長は自分から戦に志願した人を
戦の精鋭プロ集団として鍛え
その人達しか戦につれていきませんでした。
これが、桶狭間の戦いでの勝利につながります。
当時、織田信長よりももっと勢力があった
今川義元との戦いです。
今川勢2万人、対する織田勢は5千人
(人数は諸説あり)
今川勢のほうが数では圧倒的に有利ですが
今川勢は農民も多く戦の素人ばかりで
ある意味素人集団の集まりでした。
人数が多いが戦の素人集団
VS
人数は少ないが精鋭のプロ集団の戦い
これは織田勢が勝利したのも納得です。
それと、この勝利には徳川家康も
貢献していました。
織田信長と徳川家康が同じサンカで
天下統一仲間であったことはお伝えしました。
その2人の出会いは
信長15歳、家康6歳のとき。
当時、織田家には家康が人質として
住んでいました。
その家康に剣術を教えていた信長。
当時は人質が強くならないように
剣術は教えないのが当たり前です。
それでも信長は家康が強くなるように
真剣に教えていました。
そして、稽古が終わった後に
「みんなが平等で平和な国をつくりたい」
「人質として母から離されることもない
そんな国を創れたら」
と家康に話していた信長。
2人は年が離れていましたが
一緒にいて本当に楽しかったそうです。
走りながら考える信長と
ゆっくりと熟考しながら判断する家康。
お互い違う性格でも、同じサンカ。
お互いのことを理解し、信頼していました。
そして、織田家の人質から
今川家の人質になった家康。
2人の関係は離れても変わらず
桶狭間の戦いで
家康は織田家の敵という立場でしたが
有益な情報をばれないように
織田家に流していました。
情報合戦がすごかった当時は
より多くの情報を持ったものが
戦に勝利していました。
情報戦はどの武将もしていて
反対に今川家に織田家の情報を流す
家臣もいたそうです。
桶狭間の戦いで見事に勝利した織田信長。
家康は人質の立場でなくなり
故郷だった三河に戻りました。

そして、どんどん勢力を伸ばしていった信長。
京を中心とした畿内とその周辺を傘下に収め
敵対する武田を制圧、関東の後北条
東北の伊達、九州の大友も
信長の味方になってくれそうな勢いでした。
残りは、北陸の上杉、中国の毛利
四国の長宗我部、九州の島津。
北陸の上杉は謙信が亡くなって軍団は勢いを弱め
中国の毛利は豊臣秀吉の働きで勢力を
失いつつあり
九州の島津は九州の中にあり
単独で信長に抵抗せざるを得ない情勢でした。

信長の天下統一まであと一歩でした。
ここで機は熟したと考えた信長。
自分は表舞台から消えることにしました。
???ですよね。
織田信長は
平和な理想とする国づくりのために
天下統一する人物が
自分ではふさわしくないと考えていました。
新しい国は平等な国
農民の命が大切にされる国にしたい。
しかし、自分は武士の出身で
それでは今までとなにも変わらない。
そこで、農民出身である豊臣秀吉に
天下統一をしてもらい
庶民のための国づくりを託したのでした。
秀吉は、庶民の気持ちが分かる人で
機転も利き、戦も強い。
どんなに偉くなっても
人びとに偉ぶることもなく
庶民から人気がありました。
民衆は自分たちと同じ農民出身で
どんどん出世していく秀吉をとても好意的に
みていました。そして、その様子をみて
自分の後継者を秀吉にすると決めた信長。
そのために自分が表舞台から
消えることにしたのです。

画像1

それが、あの有名な本能寺の変です。
実は織田信長が天下をうまく収めるために
自分でストーリーを考え仕組んだ
自作自演の出来事だったのです。
明智光秀が織田信長を襲ったのは表向きで
実は2人はとても仲良しで信頼し合って
いました。
明智光秀も織田信長の天下統一にかける
思いを聞いてその思いに共感していました。
織田信長が描いた本能寺の変の
ストーリーはこうです。

織田信長が理由もなく八つ当たりに近い形で
明智光秀を徹底的にいじめまくる(表向き)

それを見ている家臣たちは織田信長を
鬼だと思い怯える。
(ここでも鬼になることを決意した信長)
自分にために身を粉にして尽くしてくれる家臣を
いじめる外道というイメージを周りに与え
光秀が謀反を起こす理由をつくった。
ここまで下準備段階。

本能寺の変の当日
武田との戦いで長年頑張った徳川家康の労を
ねぎらう席を安土城で設けるからと
明智光秀に接待役をさせた。
ここでも接待の仕方が悪いと
明智光秀をいじめたおす織田信長。

接待中に備中高松攻めに行っている
豊臣秀吉の使者より援軍の依頼が届く
(これも計画の内)

織田信長はすぐに明智光秀を
秀吉の援軍として向かわせる
明智光秀は13000人の手勢を率いて出陣。

織田信長は中国遠征の出兵準備のために
本能寺に向かい
本能寺でその時を待っていた。

秀吉のところに向かうはずの明智光秀は
桂川を渡ったところで突然
「敵は本能寺にあり!」と叫んで
その軍勢を本能寺に向かわせた。

明智光秀の配下の兵たちは本能寺に
誰がいるのか
敵は誰なのか分からないまま
命令に従い、本能寺を囲む

織田信長は状況をみて本能寺に火を放たせ
しばらく様子をみたあとに
濃姫やお小姓たちとともにあらかじめ
用意していた方法で本能寺を抜け出した。
(だから、織田信長の遺体が発見されなかった
理由もうなずけます)

明智光秀は、織田信長たちが無事に
逃れたことを確かめたあとに
勝利の雄たけびを上げて勝利宣言をする。

本能寺の出来事を聞いた秀吉は
急いで中国地方から引き返し
明智光秀を謀反人として戦う。
(もちろん豊臣秀吉はこの計画を知っていた)

豊臣秀吉は頭領の織田信長の敵を討った
英雄となり、織田信長の後を引き継いで
天下統一を達成するというストーリー。

ストーリーは庶民の関心を集めるべく
なるべく派手で面白く!!
豊臣秀吉のイメージを上げ天下人として
みんなが納得するように考えました。
織田信長が現代に生きていたら
映画監督とかに向いていそうなんて思いました。

織田信長はその後、今の長野県に移り住み
長野の山奥で濃姫とゆったりと暮らしました。
長野は隠れるのも、いろいろな情報を
集めるのも便利な地形だったそうです。
表舞台から引退はしたあとも、情報を得ては
いろいろなアイディアを出していました。
その情報伝達係として
明智光秀が活躍していました。
明智光秀は死んではいません。
表向きには自害の演技をしたあとで
天海和尚と名前を変えて
織田信長のアイディアを豊臣秀吉や
徳川家康に伝える補佐につきました。
徳川家康は今回、本能寺の変には
直接かかわりませんでしたが
後ろでしっかりと見守っていました。
徳川家康はその後も織田信長の跡継ぎを
豊臣秀吉にするため尽力しました。
下級武士出身の豊臣秀吉に頭を下げるなど
武家のプライドが許さないという人もいたのです。
対する徳川家康は由緒正しい武家の出身。
実力もある徳川家康について行くと思う大名は
たくさんいました。そこで徳川家康が
豊臣秀吉に頭を下げ、臣従要求をのむことで
平穏にみんなを納得させる方法をとりました。
でも、すぐにひれ伏したらおかしい。
そこで戦うそぶりはみせました。
小牧・長久手の戦いは
実際には戦いはしていなくて
お互いの味方の大名を納得させるという
外交戦でした。
そして、最後に和睦という形をとり
和睦後に、徳川家康が豊臣秀吉の臣従要求を
のんで家来になり、天下人は
豊臣秀吉ということを日本中に知らしめたのです。
そして、豊臣秀吉は庶民のための国づくりの
政策に取りかかります。
一番の目的は庶民のために国づくりです。
まず、農民たちが武士たちの勝手な争いに
巻き込まれることなく安心して
みんなが食べるものに困ることのない
豊かな国にするために荘園制度を崩壊させました。
荘園の中の土地や作物、農民や武士も
荘園の持ち主個人の所有物であると
考えられていた時代。
だから、農民たちも戦に駆り出されていました。
検地をすることで全国の土地を把握して複
雑な土地所有関係を整理し
人掃令(ひとばらいれい)で人数を把握し
戸籍を管理。
刀狩令をすることで農民が武器を持つことを
禁止して兵農分離がすすみました。
そのことで、農民が戦に駆り出されることが
なくなり農業に専念できるようになりました。
一揆をおこさないようにするためでは
なかったことに驚きです。
このように個人のものとされた土地や
人を国が管理することによって
一部の力ある荘園の主たちが
好き勝手できなくなり荘園制度は崩壊しました。
その他にも織田信長の楽市楽座や
関所の廃止などのアイディアを自分なりに
工夫しながら次々に実現させていきました。
そして、朝廷との関係。
朝廷は豊臣秀吉を排除して元のように
政権と権力の中心に返り咲きしたいと
思っていました。
しかし、弥生時代から神格化されてきた
天皇がいる朝廷を強制的に排除しようとすれば
大きな戦になる、そう思った豊臣秀吉は
日本は天皇を頂点とした国ということにして
天皇が国で一番偉い人だが象徴であり
実務は口には出さないでくださいという形を
とることにしました。
武力では勝てず、朝廷はその条件を
受け入れざるを得なかったそうです。
ちなみに、千利休の切腹事件ありましたよね。
その原因は千利休が朝廷のスパイだったからです。
豊臣秀吉は、千利休を信頼して
仲良くしていたからこそ
真実を知ったときには激怒したそうです。
全幅の信頼を置いて
相談なども色々していただけに
余計許せませんでした。
その相談内容も全部朝廷側に
筒抜けだったわけですから
激怒するのも理解できます。
しかし、表向きは朝廷と温和に
付き合っていただけに
これが世間に知られるのは
朝廷と問題を起こしてしまうことになり
得策ではない。
そこで、千利休が豊臣秀吉に
粗相をしたという理由で
切腹を命じたことにしました。
庶民のために色々と手を尽くしていた豊臣秀吉。
しかし、そのあとに織田信長が
一番してほしくなかったことを
しようとしました。

それは世襲制です。
世襲制は「ただその家に生まれた」
それだけで生まれたときから権力者なので
自分一番が当たり前になり
庶民のことを一番に大切にする心が
失われてしまうからと織田信長は
世襲制について危惧していました。
確かに現代の政治家のほとんどは世襲制。
すべての政治家がそうではありませんが、
国民のための政治ではなく、自分の権力と
私利私欲のための政治をしている印象を持ちます。
そこで、織田信長は血筋ではなく
能力と適正によって次の時代を担う
世継ぎを選ぶように
豊臣秀吉に約束させていました。
当時の豊臣秀吉はねねという正室がいました。
ねねと豊臣秀吉は恋愛結婚です。
当時としては珍しく思われるかもしれませんが
それはある程度の身分の人の話で
農民や下級武士では恋愛結婚がほとんどでした。
ねねは、豊臣秀吉が下級武士から
天下人になるまで支えてくれた人。
おっとりとした性格で周りの人から
愛され慕われていました。
しかし、長年子どもは授かれませんでした。
(その他にも女性がいましたが
子どもを授かれなかったそうです。)
ところが、晩年になってやっと
子どもを授かることができました。
淀殿の間にできた子どもでした。
この淀殿は織田信長の妹お市と浅井長政の娘です。
織田信長の姪っ子にあたる彼女。
この人が大きく狂わせていく張本人になります。
実は淀殿が側室になったのは
豊臣秀吉が彼女にお願いしたからでした。
豊臣秀吉は実はお市が好きで
側室にしたかったのですが
お市は女に弱い豊臣秀吉を嫌い
別のところに嫁ぎました。
お市の嫁いだ先が織田家の敵になり
討った時にも、再度お市に対して
帰って自分と一緒にならないかと
豊臣秀吉は説得しましたが
断られた経緯がありました。
そして、お市の娘淀殿を見たときに
一目で気に入りお願いして
側室になってもらいました。
その時から力関係ができて
淀殿に振り回されることになります。
淀殿は小さいときから浅井家の娘として
「没落した浅井家の復興のために生きろ」と
言われ続けていました。
そんな彼女は自分が豊臣秀吉の跡継ぎを産み
自分と子どもが権力を持つことが
浅井家の復興になると考えていました。
そして、淀殿はもともと自己主張が強く
権力欲が強かったので
子どもが生まれたときから
豊臣秀吉に「後継者はこの子に」と
四六時中迫り続けました。
そして、そんな淀殿に対して弱かった豊臣秀吉。
昔から、女性に弱いという気質が
ここであだとなりました。
ここで、少し疑問が。
長年子どもができなかった豊臣秀吉。
淀殿との間の子どもって本当に
豊臣秀吉の子どもなのか疑惑があります。
しかし、「あなたのお子です」と言われたとき
豊臣秀吉の人生で
とてもうれしい瞬間だったそう。
豊臣秀吉がその子を抱いた時
その子が豊臣秀吉の本当の子なのかは
どうでもよくなり
その子がそれはそれは可愛くて
しかたなかったそうです。
織田信長との約束がゆらぐほどでした。
そして、淀殿の画策により
豊臣秀吉は自分が亡くなったあと
息子秀頼を後継者にすることに決めました。
そこで困ったのは徳川家康です。
息子秀頼に権力がいくと、それは淀殿が
権力を持ったのと同じこと。そうすれば
また大名達のための世の中になってしまいます。
ねねと一緒に世襲制について止めましたが
豊臣秀吉は聞く耳をまるでもたなかったそうです。
しかも、豊臣秀吉の周りには
いつも淀殿がいて目を光らせていました。
また、表向きは豊臣秀吉の家来である徳川家康。
家来たちが集まる場面では命令を聞かないと
いけません。
そこで、豊臣秀吉は
家来たちの前で徳川家康に
「秀頼を頼む、秀頼が成人するまで
しっかりと後見してくれ」といいました。
徳川家康は「承知しました」と
頭を下げるしかありません。
豊臣秀吉は見事な策士でした。

徳川家康は
織田信長の理想の国づくりを
するためにここまで来たのに
世襲制にしてしまえば挫折したのと
同じと思っていました。
ちなみに、江戸時代は世襲制ではありません。
それは後日詳しくお伝えしますね
織田信長はこのことについて
何も言いませんでした。
後のことは豊臣秀吉に任せ
任せた限りは口を出さないと決めていました。
しかし、豊臣秀吉が亡くなってから
淀殿に対する苦情がたくさん徳川家康に
よせられました。
このとき徳川家康は朝廷の官位でトップになり
世の中から豊臣家の五大老筆頭と
目されていました。
秀頼、というより淀殿に従いたくないという声が
どんどん大きくなりました。
実は、豊臣家の後々に影が差す事件が
豊臣秀吉の亡くなる半年前にありました。

画像2

春に京都の醍醐寺で豊臣秀吉主催の
お花見の宴を催したときのことです。
秀頼、淀殿、ねねたち近親の者をはじめ
諸大名、その配下の人たちなど
約1300人を呼んでの盛大な宴でした。
豊臣秀吉の権威の大きさがよく分かる宴で
淀殿は自分の権威を人々に
見せつけたくなりました。
そこで淀殿はやらかしてしまうのです。
花見の時に近親者は
豊臣秀吉から盃をもらいます。
正室のねねが一番先と誰もが思いますよね。
しかし、そこで淀殿は正室のねねではなく
自分が先に盃をもらうべきだと言いました。
「後継ぎの母はこの私なんだから、子がいない
正室(ねね)よりも私のほうが立場が上。
だから、最初に盃をもらうのは当然私」と
みんなの前で宣言したのです。
これには、周りのひとも
びっくりを通り越してドン引きでした。
淀殿は普段からこんな感じで
自分の権力を家臣に振りかざすところが
あったといいます。
だから、内心みんなは淀殿のことを
快く思っていませんでした。
反対に、ねねはいつも穏やかで表だって
主張することもなく、豊臣秀吉を
しっかりと支えている姿を
みんなは知っていました。
みんなに慕われ頼りにされていたねねは
家臣たちにとっては母親のような
存在だったのです。
そのねねを差し置いて
自分のほうが立場が上だと言い切った淀殿。
みんなの視線はねねに向けられました。
ねねも当然びっくりしました。
しかし、それも一瞬。
すぐににっこりと笑って
「どうぞ」
と言ったそうです。
そして、みんなの視線は豊臣秀吉に。
豊臣秀吉は何も言わずに
ねねに先に盃をとらせました。
顔を真っ赤にして怒る淀殿に対して
豊臣秀吉は静かにこう言いました。
「勘違いするな、分をわきまえなさい。
正室であるねねより立場が上などと
不届きなことは金輪際口にしてはいけない。」
とはっきりと言いました。
固唾を飲んで見守っていた人たちは
ほっと胸をなで下ろしました。
間違って淀殿を優先してしまったら
淀殿がどこまでつけあがるか
分からないからです。
豊臣秀吉が淀殿に甘いのを知っていたので
もしかしたらという不安がありました。

この事件が豊臣家の没落のきっかけになりました。
小さな事件ですが
この事件を知っている家臣たちの中で
淀殿に従いたくないという声が
大きくなっていったのです。
徳川家康は覚悟を決めました。
織田信長の理想の国づくりを達成するために
豊臣家に代わり天下を治めるしかないと。
しかし、豊臣秀吉が亡くなった今でも
豊臣家に味方をする大名もたくさんいます。
家来の一員であった自分が豊臣家に
弓を引くことは謀反になり
世間の反感を買い
豊臣秀吉が治めた世の中を
また動乱にさせてしまいます。
しかし、そのままにしておくとまた
大名中心の元の世の中になる。
戦はしたくないけどやるしかない
と思い覚悟を決めました。
そして、戦をなるべく減らすために
天海和尚と名を変えていた明智光秀に
お願いして大名たちに話をしてもらいました。
明智光秀も同じ思いで織田信長が描いた
理想の国づくりの修正を
したいと思っていました。
豊臣家に弓を引くために徳川家康が
大名たちに伝えたこと。
もちろん
織田信長の理想の国づくりについて
語っても理解を得られないのは承知です。
なので
「信長さま、秀吉さまには家来として
お仕えしてきましたが
今度は私が天下を取りたいと思ったのです。
もう誰にも仕える気はありません。
私が天下をとる順番を待っていたのです。
今その時、機が熟したのです。」
と言いました。
そして
「豊臣家は、今幼い秀頼公と
淀君しかいない。
とても手薄な状態です。
この手薄な豊臣と私のどちらに付きますか?」
と大名たちに迫りました。
そして、多くの大名たちの理解を
得ることができたそうです。
その後、あの有名な関ケ原合戦となります。
豊臣家は石田三成率いる西軍と
対する徳川家康率いる東軍との戦いです。
ただ、ほとんど戦うこともなしに
すぐに終わりました。
明智光秀と徳川家康が
根回しをしていたおかげで
戦いは形だけで済んだのでした。
石田三成が豊臣家の大名として有名ですが
ここでも淀殿が絡んできます。
淀殿は石田三成に
「私はか弱い女で力がない
もうあなたしか頼れない
助けてください。」
と泣き落としの手を使いました。
そうなったら石田三成も
「あんな家康のような裏切り者など
私が成敗し立派に秀頼公をお守りし
次の天下人にしてみせます。」
となりました。
実際に戦いに熱くなっていたのは
石田三成くらいで
戦いはすぐに終わったそうです。
関ヶ原の合戦の後に
徳川家康は征夷大将軍となり
名実ともに天下人となりました。
しかし、豊臣家の人達をどうするか
大きな課題が残っていました。
豊臣家は一大名になりましたが
まだ特別な地位をもった存在でした。
そして、実質的には徳川の支配下には
入っていませんでした。
ここで豊臣家をそのままにしておくと
また豊臣を担いで
天下を狙うものが出てくる
それだといつまでたっても
落ち着いた平和な世の中にはならないと
判断しました。
徳川家康は織田信長のように
鬼になる決意をしたのです。
小さな子を含め豊臣の血筋の人
すべてを殺しました。
仲間である豊臣秀吉の縁者を
自分に手で滅ぼす辛さを
心に刻みながら
天下統一をやっと果たした出来事でした。
これが大阪冬の陣、夏の陣と呼ばれる戦です。
こうして、豊臣秀吉が迷ってしまった方向を
しっかりと修正して平和な江戸時代への
一歩を踏み出しました。
いやー改めて天下統一までの道のりが
こんなに大変だったなんて
びっくりするばかりです。
本能寺の変は歴史的に謎が多いと
されてきましたが
この話を聞いて納得しました。

かなりの余談になりますが、ある新聞で
「歴史上の人物で盃を一緒に
かわしたい人物は誰?」
というアンケートが
あったんですよね。
織田信長が1位だったことを覚えています。
私は当時、織田信長=鬼という印象が
強かったので
「ちゃぶ台ひっくり返されそう、意外だな」
なんて思いながら読んでいました。
戦国から江戸は
「庶民のための国づくり」
江戸から明治は
「一部の権力者のための国づくり」
NHKの大河ドラマでも
戦国から江戸のストーリーが人気があって
江戸から明治のストーリーが
人気がないという話を
聞くとみんなハートの奥底で
感じているものは
あるんじゃないかなと思います。
単純にストーリーの面白さかもしれませんが。
江戸時代は「明治維新バンサイ」のために
悲惨な時代として
印象操作されてしまいました。
信じられない!!
と思った方いると思いますが
明治になってから戦争ばかりで
国民の生活がどんどん苦しくなっていったのが
事実としてありますよね。
対する江戸時代は
戦争が260年間もなかったですから。

天下統一について
織田信長や周りの人達が
どんな想いだったのか
もっと深く知りたい
もっと詳細を知りたいと思った方は
縄文を創った男たち
『信長、秀吉、そして家康』
上下巻著ミナミAアシュタールを
オススメします。

織田信長の天下統一にかける熱い気持ちが
ビシバシ伝わってきます。
そして、天下統一までの苦難の道のりを
周りの人たちと協力しながら
成し遂げようとする信長に感動します。
私は面白くて一気読みしました。

最後まで読んでいただき
ありがとうございました。
この宇宙に1つしかない
オリジナルでスペシャルなあなたに
このメッセージが届けられたことに
感謝を込めて。

Twitterもしています。
noteではなかなか伝えられない
情報をお伝えしているので
よかったらご覧ください。

そして、次回の
賢者は歴史に学ぶシリーズは
260年続いた江戸時代
本当の江戸時代の姿に迫ります!
⑦⑧⑨の3回に分けて、今まで習ってきた
江戸時代の誤解を解いていきます。
江戸時代が悲惨な時代はうそ!
それは「明治維新バンザイ」に
したかった人たちのせいです。
鎖国は愚策ではない。
大陸の侵略を防ぐためのものだった!
労働時間は1日三時間!?
本当は庶民が平和に暮らしていた江戸時代!
などなどたっぷりの情報でお届けします

以下、参考文献です。

#織田信長 #豊臣秀吉 #明智光秀
#徳川家康 #天下統一 #本能寺の変
#桶狭間の戦い #戦国時代
#戦国 #歴史 #賢者は歴史に学ぶシリーズ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?