討論番組は見ててつらい:「主義の対立」と「場の偏狭性」

1、noteとはどのような「場」か

「個人」としてあらゆる情報にアクセスが可能になった現代であっても、インプットが偏れば、アウトプットも偏り、それが習慣化されれば性格まで変容するのは容易に想像がつく。

情報の偏りや伝わり方の癖はメディア(情報媒体)ごとに様々だ。個人的な印象として、
・TV:エンタメ重視、誠実さに欠ける
・ラジオ:即時性と冗長さ重視、時間的効率に欠ける
・新聞:広告と堅さと質感重視、手軽さに欠ける
・Facebook:インテリ感重視、庶民的でない
・twitter:手軽さ重視、不配慮で倫理性に欠ける
・インスタ:ビジュアル重視、非リアへの優しさに欠ける,など。
・note:↓noteを1か月間続けてみた印象↓

<要請される能力>
教養・創造性・独創性・親しみやすさ・読みやすさ
<いいところ>
書いた記事が多くの人の目に触れ、互いに触発し合い、新しい出会いや新しいアイディア、新しい視点を獲得できる。民度が高い。みんな優しい。
<悪いところ>
不特定多数の人に影響を与えることを意識していては筆が進まない。だって一般人だもの。発言の自由が幅を利かせており、無自覚に偏った意見やアジテーション、個人的な見解、あまりに徒然な日記が散見される。筆者それぞれのエクリチュールへの想いがあまりに多様で、それが素晴らしくもあり、猥雑でもある。
雑木林のようでもあり、宝の山のようでもある。


2、主義の対立

noteという場は概ね「個人」が「全体」に対して物を言う場だ。
つまりそこではどうしたって個人主義的な意見が高く評価されてしまう
ここはツリー型ではなく、リゾーム型のコミュニケーションの場だ。

テレビでよく討論番組が放送されている。
『仕事好き/ヤンキー』 『右翼/左翼』など、ひな壇で向き合い、互いを論破すべく、味方を擁護し相手方を非難するあの手の番組。私はあれが嫌いであまり見たことはない。刑事ドラマなんかも嫌いだ。
あの場では誰もが偏狭な意見を言う。否、言わされている、エンターテインメントのために。誰もが与えられた役割を演じ、互いに罵り、否定し合う。あれは仕事として、金のために「寛容さ」を易々と捨てた大人たちの茶番劇だと言わざるを得ない。
彼らは個人の思想に基づいてではなく、与えられた肩書と役割と流れに従って、口を動かすだけのいわばロボットだ。

しかし、政治家や演者に限らずとも、
「日常」を生きるわれわれにだってそのような節は大いにある。

『教育、広告、新聞、ニュース、アプリ、友人との会話、市場、社会、身の回りの人工物の造形』これらすべてが、日夜われわれに”影響”を与えている。

ここではそれらを洗脳ではなくあえて「情操教育」と呼ぶことにする。

情操教育に従うも抗うも個人の自由であり、無自覚にけん引するくらいが最も精神的負担が少ないのかもしれないが、私は良識ある一市民として、せめて「自覚」だけは怠らないようにしたいと思っている。

感じているのか感じさせられているのか、思っているのか思わされているのか、言っているのか言わされているのか。

言わされていると気付けば、そのままで言い切ってよいのか、または最後に反対意見を付け加えるべきかを考える。

何か行わされていてそれが不服であれば、言い訳であったり償いであったりを付け加える。

真円が楕円の一部であるように、

・能動とは受動の一部だ。
・平等とは不平等の一部だ。
・完全とは不完全の一部だ。
・個人とは全体の一部だ。
・右翼とはかつての左翼だ。
・左翼とはかつての右翼だ。
・インテリとはバカの一部だ。
・若者も老いぼれの一部だ。
・男性は女性の一部だ。
・運命は偶然の一部だ。
・自己とは他人の一部だ。
・『義は正であるが、正義は悪の一部だ。』

私の「~だ。~である。」は事実ではなく、むしろ願望に近い。)


置かれた立場の反対を語ろうじゃないか。

壁のこちら側に立って、向こう側の人に心を寄せよう。
できることなら塀の上に立って平等に声をかけよう。

noteにおいて私は、個人主義をうたわない。全体主義を否定しない。
すると読者は私を全体主義者だと思い、自らと相容れない思想家として忌避するだろうか。


「義」は正だが、「正義」は悪の一部であるという矛盾。


いつの世も、一方的言論は虚しく、対立は哀しい









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