薄暗く透明な自己開示/noteの名前の由来

物心付いてからというもの、鈍感には生きれぬ質だった。
程よい田舎に生まれ、幸いにもよき両親や親類、地域住民、また多くの朋友にも恵まれた。
男女関係も概ね有意義なものだったと感じている。

好きな人は繊細な人、ひとの痛みがわかる人
 ひとの痛みに耐えかねて、時代の行き先を案じて私生活に支障をきたすかどうかくらいが調度いい。世々ぼんくらに馴染んで暮らし、内心では世を捨て鬼神に帰依するくらいが望ましい。内も外も愚鈍だったり、内も外も鋭敏だったりというのは賢くないしいささか素直すぎるように思う。

嫌いな人は誠実でない人
 言うべき時に言うべき事を言わなかったり、非が自分にあるのを認めなかったり、大げさだったり、他人のあら探しに忙しかったり、そういった人が嫌いだ。また自分を信じて止まない人も苦手だ。彼らは保身的で他人を信じようとしない。強すぎる信条は調和には向かないが、信条なき人も誠実とは言えない。

イケメンだとか権威とか。
 信頼が信頼を呼ぶというのはおかしな話で、物の機能は唐突に特異的に減衰するものだ。盲信というのは世間の一般判断に間借りした判断から起こる。見識が未熟な内は必要だが、自立的な判断こそ成熟の証ではなかろうか。つまり見識の成熟とは一般知識からの脱却であり、知的な自立を意味し、それは精神的な孤立に耐えうる卓越感を要する。この卓越性の取得によって何人も権威的になりうるのだ。

夢を持ったことはない
 まず職業分類が嫌いだ。資格や試験についてもあまり賛成ではない。
生存と労働を分けて考えるのはナンセンスだと思う。また、思想を生活から分けることも好まない。私はいかなる肩書も固有名詞も格別視しない。目で見てわかる風格や態度、声色や仕草から感じ取れるもの以外から人格を推し量ることの浅ましさを知っている。
 ただし、夜見た夢を起きてから分析するのは楽しい。

言葉が嫌いだ。
 言葉とは服装なようなもので、人々はよく厚く着込んで本性を偽装する。しかし言葉の性質を深く知る人は服の上からでもその素性を知る事ができよう。凡そよく着込む人ほどその素性は醜いものであり、逆にあまりに薄着でも目のやり場に困ってしまうから難しい。
 文化との結びつきもまた強く、文明の衝突やイデオロギーの対立など、言葉の利用によって生じた諍いは枚挙に暇がない。彼らが一時でも言葉を離れて、本能的に行動できようものなら世の中は幾分か安らぐだろうに。言葉なくして、「分かり合えない」ということはあり得ない。言葉があるから我々は同胞にさえ互いに身構えるのだ。

数理が嫌いだ
 原点を省みないもの多すぎる。なにが0でなにが1なのかがわからない。また確率や推定などと言って、前提条件がお粗末なものがあまりに多い。経済や統計などは最たるもので、人が独自に作り出したものには凡そ原点といったものがないから、数的に処理できる見込みのないものを、えらく畏まった処理をする。そもそも概念的に粗雑なものを緻密に語ることはできない

昔は理解できないものもあったが最近では理解に苦しむようなことはほとんどない。
 それだけ成長したのか、はたまた新しいものを無意識に避けているのか。
過去の莫大な時間が保証するものしか受け入れないというのは文化人として狭量だが、かといって新しいものに飛びつくのはどうもいけ好かない。

幸せに憧れたことはない。
 「何をするか」を考えられる時代にいることだけでも素晴らしいことではないか。自分にとってより良いように、身の周りからでも、できることから始めて少しずつ作り変えていけばよい。部屋の中にいても世界中と繋がれる時代だから、不必要と思うなら全く動かなくてもいい。自由とは本来そういうものだ。死にたいと思えば死ぬがいいし、生かしたいと思って生かすのもよい。誰もが互いに無責任であることこそ真の自由であり、自由を重んじるならば人々は無責任たる責任を果たさねばならない。非難を浴びて殺されても、無差別な暴力を受けたとしてもそれは自己責任であり、他人を咎める筋合いはない。それを踏まえた上で相手を憎もうが起訴しようがそれもまた自由である。自由の下には行動しかない。自由を語るとき人は唯物論者になる。彼らにとって精神的活動は物質的活動への動機づけにすぎず、それ自体に豊かさを求めることはない。この時に言われる幸せとはただの物質的豊かさのことであって、時代もここまで来るともはや「幸せに執着しないこと」こそが本当の幸せを見つける唯一の方法だと思う。

○常に善良である者はいない。
 すべての人の中には善がある。ただしそれは時によって大きかったり小さかったり、薄かったり濃かったりする。この世界の生き物はみなこの世界の一端を担い、預かっている。そして人々の善はよく競合する。命とは風前の灯火。生命とは戦略と調和。そこには本来善も悪も、聖も邪もない。主観があるから意志が生れる。善くあろうというのは社会的動物の一種の戦略にすぎない。押してダメなら引いてみる。よくがんばったら少し休む。それぞれのペースで、それぞれの生き方で。

真面目に生きれば死ぬことになる。
 生物にとって、共通のゴールは死であるから、一心不乱に生きればその分早くに死ぬことになる。何も誰もが誠実に効率よく生きる必要はない。それは死への近道であるから。高等であることが何も素晴らしいことではない。少なくとも自分自身が居心地のよい環境に暮らすこと、現世に安らぐことができないのならば、その社会は作り変える必要があるということ。そのためにはまず、安らごうと努力すること、そのために安らげるように少しだけ環境を変えること、他人について考えるのはその後でいい。自らの居心地の悪さのために他人の幸福に尽力するのは倒錯甚だしい。他人にとって居心地の良い環境の内に自分はいるのかいないのか。どちらでもよいというのが存外よい関係なのかもしれない。あまりに恩着せがましいのも不粋ではないか。

人はよくとうてい手に入らぬものに手を伸ばす。
 大欲は無欲に似たり。自らの無力さを是認するため、謙虚か傲慢か。手を伸ばせば届くものから順に幅を広げるのでは時間がかかるし大変だから。人はよく荒唐無稽なことを語る。道徳とか経済とか物理とか。知らないことが多いと知れば、知る必要もないことを知って、また知らないことが増える。そうして一通り手を出して疲れたころに、何となくすべて知った気になるが、実際は虚実の区別と妄想の技術が少し上達したに過ぎない。あの世に持っていけるものはないのだから、この世の許す限りこの世に遍歴し、時が来たら全てを手放すくらいの気概でなくてはいけない。

智慧の獲得には多くの経験がいる。
 この場合求められるのは量よりも質である。良いものを少しだけいい。初めから良いものを良いものと認知するのは容易いことではないが。良くないものを見かけたら静かに手を加えて良いものにする。ここで良し悪しの判断が正しくできれば、みなにとって良い結果となり、正しくできなければ誰かが損をする。しかしいかなる生命にとっても良い行動をするというのは並大抵ではない。大抵の人々は自らの所属するものに寄与するだけでも随分と骨を折る。悲願が達成されても満たされない人が多いのは、その功罪を推定するだけの知恵がないままに夢を抱くからである。考えなしに遂行された夢の多くは個人の欲望を満たすことに費やされ、その残渣が社会の足場を悪くすることは少なくない。子どもはそこで大小の残骸に交ざって遊び、世界の有する広さと繊細さを知らぬまま成長する。人工の生活ポッドで生きるのは母胎の中で生涯を遂げるに等しい。逆に地球の腹から出たのも人類だけではあるが。知性は安全と冒険をともに求める。一般に言われる理性とは、人のロゴスであって、自然のロゴスではない。智慧の獲得とは人知を内包し人の道から外れることに他ならない。

あるがままを捉える能力、分析を施さない能力。
 見たまま、そのままを理解できないと思うならば、我々は終ぞそれを理解することはない。
見たまま、そのままを理解できたと思えるならば、我々はそれについて語ることはない。
聞こえないもの、見えないもの、感じられないものについて論究するのはどこか美しくない。それは世界に対して不粋で不誠実で、不配慮だ。あるものはある。ただそれだけ。これを受け止めることができないのなら、我々は生まれてきた意味を終ぞ知ることはない。
何もかも細かく分解し解析するのだけが知的な活動ではない。部分の集合と全体とは異なるから。

知覚の檻からは抜け出せない
 眼耳鼻舌身意の感覚情報に思考を加えて知覚とする。
我々の知覚の欠点は、我々がいない場の状態を認知できないことである。我々は我々が存在していない場所、時間の情報について終ぞ正しく知ることはない。上等な情報処理能力と上等な情報媒体があればその場にいるような感覚が疑似体験できようが、それは元からある五感の有する機能の延長でしかない。脳髄というプラットフォーム上に発生するネットワークから意識なるものを構成し、それを通して世界を体験していると感じている我々は、そこに入ってくる情報以外から世界を知ることはない。また個体間での意識の共有や交換は、個々の認知を担当する意識が終始独立であるため不可能である。よって、物事を「理解する」ということはその事について理解した気になる、差し障りなくなる、慣れて先に進む準備ができる、などといったこと以上の意味は持ちえない。ましてや、互いに独立である我々が真に理解し合うといったことは不可能である。とは言え、我々が我々自身を理解している程度には我々は、長い時間をかけることで、すべての人と隈なく分かり合うことはできよう。

○私が恐れるもの。
それは正当さ、誠実さ、使命感、正義の衣を身にまとった人々である。
彼らの行いに比べれば魑魅魍魎のいたずらなどかわいいもの。

思い込みのない人間は正しい、がしかしその正しさは表明されない。本当の正しさとはそういうもの。

私は正義に恐れおののく。されば私は性悪か。いな、私はその欺瞞に気づかぬ彼らの鈍感さに憧れる。
 
信念は削り去ることしかできない。生命は万能にして生まれ無能にして果てる。個性とはみな大木を彫ったが如し。

現実を夢想し、夢想によって現実を知る。

(2020/03/10 記 )

ーーーーーー

名前の由来

<日々の断想>
社会学者ジンメルの書『愛の断想/日々の断想』から
愛を知る人・生きるための軽薄さなどに心底共感した。

<肥沃な泥沼>
J.S.ミルの書『ミル自伝』朱牟田夏雄訳の訳者あとがきから(だった気がする) 

貧乏だったがゆえに多芸となった孔子と、
父親の英才教育により多芸多才となったミル。

生きるための「必要」は身を助けるが、
認められるための「必要」はいつしか自ら泥沼と化す。

いかに肥沃であっても、そこに酸素はなく、見慣れた生き物の住処とはならない。水が干上がる時を無機質に待つような待たないような、そんな雰囲気が気に入ったため。



この記事が参加している募集

自己紹介

サポート額の内20%くらいはnote等への手数料になります。残りの80%くらいは一時的に私になり、すぐに通過して何処かへ行きます。でも、100%はあなたと私の記念になります。