「轍、寄り道、回り道」-後編

自分史の後編を書きました。前編はこちら

<社会人編>

 平成8年4月、富山県高岡市にある某眼科医院に検査員として就職する。学校に来ていた求人の中で、コンピューターからはできるだけ遠そうな就職先を選んだ。業務内容は検査員として検査全般および受付事務等。院内紙作成、データベース管理等を担当した。使用機器はマッキントッシュが多く、マックを使うきっかけとなる。富山市から高岡市への通勤時間がかかるため、職場の近くにアパートを借りて初めての一人暮らしをした。患者への挨拶は「どうしましたか?」ではなく「いらっしゃいませ」というような斬新な方針で、院長の考えなどから影響を受けた。

 平成9年8月、某コンピュータ会社の富山支店に転職した。石川コンピュータ会社ではパソコンインストラクターとして採用された。通勤方法は実家から車通勤だった。パソコン教室の講師として、初心者に電源の入れ方、ワード、エクセル、一太郎などのソフトの使い方を教えた。北日本新聞カルチャーセンターのワープロ講座を担当した。パソコンやワープロ操作を教え、販売、セットアップなどの設定をして納品した。主に富山県内の企業、病院へ出向き、企業向けシステムの納品導入指導を担当した。初心者に教えるのは苦労なくできた。

 平成11年3月に結婚を経て、平成12年1月長女を出産、育児休暇を取得。当初は1年間取得するつもりだったが、職場の希望により半年に短縮した。職場復帰後は長女が1歳になるまで時短制度を利用した。長女は職場近くの民間の保育園へ預けた。平成13年4月に退職した。退職後もアルバイトとして行政のIT講習会が終わるまで担当した。

<結婚出産編>

平成10年12月頃、現在の夫と婚約する。平成11年3月14日、金沢全日空ホテルに於いて挙式披露宴を行った。新婚旅行先はフロリダのディズニーワールド、ラスベガスだった。結婚後の住まいは夫が一人暮らしをしていた富山市2LDKのマンションで一緒に暮らす。婚姻届の提出は忘れていて、5月8日に慌てて提出している。

 結婚や出産をしても働き続けることに迷いはなかった。同年6月に妊娠がわかる。つわりが軽すぎて気づかず、わかった時は妊娠5ヶ月だった。妊娠の記録を兼ねてweb日記を始める。平成12年1月23日、実家の近くの総合病院で長女を出産した。産後7ヶ月で職場復帰した。

 保育所に子どもを預けてフルタイムで働くことは時間的に厳しく、核家族で、両親は現役で仕事をしていたのであまり頼れなかった。子どもが発熱などで休まなければならない時が続くと夫と交代して休んだが、精神的に厳しかった。

 家事育児を夫と分担することがなかったこともあり、退職という選択をする。退職後も時々仕事があり、その時は長女は保育所の一時保育を利用した。

 平成14年7月20日八木産婦人科にて次女を出産する。2人の育児は楽しいが、家事育児だけはやはり性に合わないようで、模索するようになる。

<退職してから>

 退職してからは育児の合間に図書館へ通い、複数の図書館から一度に10冊以上借り、ビジネス書や自己啓発書などを貪るように読んだり、無料の女性起業セミナーや女性のためのセミナーをできるだけ受講し、2人の娘を託児ルームに預け、託児ルームがないときは一緒に連れて参加したりして、起業に向けての知識を学んだ。

 平成15年4月、長女を保育所へ入れるために開業届を出した。コンピュータ会社時代にパソコンを販売した客がきっかけで、富山県ITセンターに営業に行き、半年後に欠員がでたことにより、平成16年2月、ITセンターの外部講師となる。ITセンターではパソコン入門、ワード入門、エクセル入門などの定番の講座の他に、年賀状ソフト、イラストレーターやフォトショップの講座も担当した。同時期に派遣会社に登録し、平成19年度某専門学校情報ビジネス学科「システムアドミニストレータ初級受験対策」を担当。商船時代の知識が役に立った。平成19年12月から平成20年3月まで「再就職を目指す女性のためのパソコン入門講座」、平成20年度から22年度まで専門学校で「ワードエクセル検定受験対策」を担当した。単発で数日だがTOTOショールームの受付もした。

 平成20年3月にITセンターが廃止になるに伴い、同じ外部講師だった人からの紹介で平成20年3月、富山インターネット市民塾の事務局スタッフとなる。富山インターネット市民塾では、主に市民講師を支援・養成、メルマガの発行やホームページ更新業務を担当していた。採用された理由にコーチングの活動をしていたことがあり、スタッフになると同時に市民講師となり、自ら講座を開催することになる。平成23年3月、コーチングに集中するため市民塾を退職する。

<コーチングとの出会い>

 コーチングとの出会いは、育児中の模索時代にビジネス書を読み漁っている中で知り、知れば知るほど惹かれていった。次第に仕事にしたいという思いが強くなり、平成19年8月、銀座コーチングスクール富山校にて学び始める。翌年2月銀座コーチングスクール認定コーチとなる。

 コーチングを仕事にしたいと思ったのは、それまでのパソコンインストラクターではハードウェアやソフトウェアが新しくなるとそれまでの知識が使えなくなり、個人で対応するには限界がある一方で、コーチングは知識や経験が全て蓄積されて財産になり、年齢が上がっても長く続けられるという理由もあるが、実際は理由などなく直感のような「ただコーチングをやりたい」という強い思いに突き動かされていた。学生の頃に、進路に迷って心理学へ進まなかった訳だが、ここにつながるまでには随分と長い時間寄り道をすることになった。
 ファシリテーションは自身の経験から必要と感じて学び出したのだが、土台はコーチングと通じるものがある。

<コーチングの活動を始める>

 富山インターネット市民塾の講座にプラスして、平成22年1月から毎週コーチングセミナーを開催した。毎週金曜日朝の7時から8時、当時富山市千石町にあったコミュニティサロンが会場だった。そのセミナーをすることになった経緯は、コミュニティサロンのオーナーとの出会いだった。ある時、富山インターネット市民塾の市民講師の一人に19時開始のセミナーに誘われた。普段は19時開始のセミナーに参加しないのだが、なぜかその時は参加してみようと思った。そこに偶然参加していた別の市民講師がいて、彼と一緒に参加していた若い男性を紹介されたのだが、彼がその後コミュニティサロンをオープンする。

 金曜日の朝7時にしたのは、当時市民塾があり平日日中にできないこと、夜や土日は子供の世話や行事のため避けたいという事情と、参加者が参加可能な時間を考慮して、平日の朝の出勤前の時間帯に決めた。さて、平日の朝7時に毎週セミナーを開催することになったのだが、驚かれるのが当時娘たちは小学校4年生と1年生ということだった。私は子供たちより早く出ることになるので、子供たちだけで朝学校に行けるように段取り、教育した。参加者がいなくても1年は続けることをきめていたが、毎週欠かさず開催し、平成23年12月に第3子を出産する直前まで2年間継続した。

 市民塾やセミナーを開催していることで存在を認知されるようになり、仕事の依頼が来るようになった。コーチングスクールのアシスタントをすることで講師になることを勧められ、平成25年より銀座コーチングスクール富山校の講師として、コーチの育成をしている。

<長男出産編>

 女児を2人産み育てているうちに、自分が子ども好きと分かり、3人目を希望するようになった。男児も育ててみたいとは思ったが性別には拘らなかったし、不妊治療ではなく自然にできれば産みたいと思っていたが、なかなかできず諦めつつあった。

 平成23年は娘たちが小学6年生と3年生になり手がかからなくなり3月で市民塾をやめて活動を広げようとしていた7月、つわりにより妊娠がわかった。3回目の妊娠は1、2回目にはほとんどなかったつわりの症状があり、常に吐き気やパソコンやスマホを使うこともテレビを見ることさえできないほどで、最低限の仕事をするのがやっとだった。

 平成24年2月27日かんすいこうえんレディースクリニックに於いて、夫長女次女が立ち会い長男を出産した。上2人の出産時の反省を踏まえてこの時は里帰りをせず、退院後は自宅に帰り、家族との生活が始まった。

 平成28年子どもたちにコーチングとファシリテーションを広げるため仲間を集めて「親子でわくわくコミュニケーション」の活動を開始する。
 コーチングセミナーは出産後、夢をどんどんかなえる会(夢かな会)に変わり開催している。富山を中心に開催しているが出張開催もするようになり全国47都道府県での開催を目指している。
 平成29年5月2日株式会社ひびのあゆみ設立。

<あとがき>

 自分史の原稿は講座を受講中の課題だったのだが、日本で書き終えるつもりが間に合わず旅行中の中国、ドイツ、スイス、フランスでも待ち時間や移動の車中で書くことになってしまった。
 今回書いてみて感じたことは意外なところで過去の経験が役にたったり挫折したことがきっかけで、新しい方向に向かったりと何がどこでどう繋がるかわからないもので、人生とは不思議なものだなと思った。


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