手帳の話(続き)
昨日、手帳について書きました。
一言で要約すると、私はまったく手帳を使いこなせない人間だ、ということです。今日はその続きです。
なお、手帳は日々のタスク管理ではなく、日記のように使っています。
手帳を再び開いてみる
手帳の記事を書いたあと、今年の(5月くらいまで)メイン手帳だった「pure life diary」を今日久しぶりに開いたんです。
日々を熱心に綴っていた今年の1月から5月頭までを振り返りました。読むと時間が溶ける……。文章がおもしろいのではなく、日々のちいさな記録に読みごたえがあります。
たとえば、2024年1月7日。
2024年3月3日。
2024年4月24日。
手帳のよさを見出す
どれも、手帳を開いて思い出したことです。こんなこともあったなー。ぜんぶ忘れていた。読めば読むほど、些細なことの蓄積で彩りのある日々です。
私の手帳「pure life diary」は、
・毎日書かなくてもいい
・全部書かなくてもいい
・たくさん書かなくてもいい
・無理に目標を立てなくてもいい
という優しいメッセージがデフォルトで添えられているので、ふと、今日からまた何かを書いてもいいんだな、という気持ちになりました。
そして今日、数か月の沈黙を破り、久しぶりに手帳に書いてみたら、まあなんと楽しい!
こうやって書いたことを数か月後の私が見たら、まるで今日の私みたいに手帳っていいなと思えるかもしれません。数か月前と数か月後を行ったり来たりして忙しい私です。
続いて抱く疑念
手帳を書くよさを見出した一方で、私にはどこかすこしひっかかるところもありました。
仮にこの手帳を書き終わり、また新しい年を迎えて新しい手帳を綴り、そうやって積み重なった手帳の山々を、この先ずっと保管していくのかしら。
私は、初々しく柔らかな感性だった10代後半から20代前半のときの日記と手帳を今でも持っています。今よりもずっと危なっかしく衝動的で、均衡が著しく取れていないころです。失恋や若気の至り、出口のない悩み、その感情のままに残してきたものが20冊くらいあります。
それらを、いつどうやって処分するのかを決めていません。もし誰かに見られたらと思うと、今すぐ焼却炉の火にくべてしまいたい。
若かりし頃の思いが詰まった段ボールに、これから私が綴っていく手帳も入っていくのかな。そう考えると震えます。
2年くらい前、誰にも見られない手帳があればと思って「muute」というジャーナリングアプリを有料課金して使っていた時期もありました。
結構ハマっていたのですが、紙の手帳のようにめくって視覚的に振り返れないことが私にはネックで。半年くらい利用してやめたそのアプリの存在も、恐ろしいことに今の今まで忘れていました。
振り返るために紙に残しておくと処理に困る。デジタルではいつどう何を書いたのかが振り返りにくい。うーん。
そして結論に至る?
今日また綴れたとしても、数週間後には手帳がまた空白になっている可能性があります。むしろそっちのほうが遥かに高確率です。
書きたくなったら書いて、気が向かなかったら離れて、また思い出したときに書いたりめくったりする。私と手帳の距離はそんなもんなんだと思います。
それでもなお、「1年単位の手帳が向かなければ、3か月ごとの薄いものがあれば……」と妄想したので、まだやっぱり手帳のことを考えてしまいます。
忘れたくない、綴っておきたい、という気持ちがあるから記録したくなるんでしょうね。保管が私の課題でもありますが、大きな出来事やインパクトのあったもの以外、書いて振り返らなければすべて忘れてしまう。さみしいな。
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