徒然と シン・ウルトラマンの帰結

 話題である。
 そう、シン・ウルトラマン。シン・ゴジラを抜いて、最も高い興行収入を叩き出す特撮映画になるかもしれない。
 デートムービーになり、親子が楽しむこともあり、特撮オタクを喜ばせる……おそらく、これをきっかけに円谷は新たなマルチ・バースの構築を始めるかもしれない。

 しかし、実際、そこまで褒め称えていいのだろうか。

 いや、俺も観たが決してつまらない作品ではなかった。が、それだけである。面白い部分もあったが、総合的に見れば面白い、という言葉で評するにはあまりにも稚拙で、内輪向けだった。
 もちろん、内輪向けネタであるパロディを、誰が見てもわかるように作られてはいたし、この映画をきっかけに早速スマホで検索! なんて人もいたと思う。それをきっかけに、今のウルトラマンを知ってくれたら、それだけでこの映画は成功したと言い切ってもいい。

 だから、褒め称えてもいいのだ。

 それでも、俺は否を唱えたい。確かに一時的にウルトラマン界隈を盛り上げる作品なのは間違いないが、同時に、ニュージェネレーションの子供たち――令和の子供たちが新たに見つめるヒーローの姿としては、いまいち説得力に欠ける映画ではなかったか。
 大人の興味心を引くことはできた。親子で来た人たちは、親が子にウルトラマンを伝えるかもしれない。

 だが同時に、シン・ウルトラマンはどこまでも、過去のウルトラマンへのリスペクトと原点回帰という名の、今子供たちを牽引するために一生懸命、制作されているウルトラマンへのアンチテーゼになっていないか。少なくとも、俺の目にはシン・エヴァで「モラトリアムからの卒業」を優しく描き、エヴァファンの背中を優しく押した庵野秀明が、それとは反対の――モラトリアムへの帰結を描いたような気がしてならない。

 言ってしまえば、ウルトラマンはすごい! が、彼らの善意を妄信せずに、人の手で、皆で力を合わせてウルトラマンーー超人になろう。
 その初代ウルトラマンで謳ったテーマを、特に手を変え品を変えることなくやりきった作品だ。

 それが悪いとは思わない。独りの超人に依存して、彼にすべてを押し付けた状態を平和と呼ぶ、というのはどう考えても間違っている。
 だから、シン・ウルトラマンの中で、人とウルトラマンが手を取り合い、ウルトラマンだって実現できなかった大きな作戦を成功させたのである。人の力はウルトラマンの――超人の手助けができて、なんなら、それがなければ超人でも何かを成し遂げることはできない……!
 それはまさに、初代ウルトラマンが辿り着いた結論であった。

 シン・ウルトラマンはその結論から、まったくはみ出ることなく終わった。まさに原点回帰、過去に出した結論と帰結としたのである。

 庵野亜秀からしてみれば、それは当然の行為であろう。彼はエヴァだからこそ「モラトリアムの卒業」を謡えたのであり、これはウルトラマンであって、彼の作品ではない――彼にしてみれば、汚すどころか、足を踏み入れることすらできない聖域だったのである。

 だから、新しい要素は何一つなかった。メフィラス星人の存在感に関しては新しい解釈を生み出したが、それも初代ウルトラマンの時点でやれてしまえたはずであり、つまり、あくまでウルトラマンの範疇を超えていない。

 シン・ゴジラもそうだが、ファンの作品の愛は溢れていた。シン・ウルトラマンもその例に漏れない。あちこちにちりばめられたパロディ、特撮オタクがにやり、とできる演出。問題視される長澤まさみ巨大化に関しても、原作の尊重とすれば、制作側がやりたくて仕方なかったものだろう。

 だから、そう。
 このシン・ウルトラマンは正しくウルトラマンの後継であり、その思想の後継者である。

 ゆえに、俺はどうしても受け入れられない。
 ニュージェネウルトラマンシリーズ、最新作のトリガー、そして次回作デッカーはウルトラマンの骨子は間違いなく受け継ぎながら、今の時代の子供たちに――ちょっと面白くないと思えば、1.5倍速再生したりする子供たちに――どうすれば作品が届くのか。ウルトラマンに憧れて、その精神性に少しで近づきたい、と思わせてくれる作品を作る努力をして、結果も出している。
 シン・ウルトラマンはその流れに、まった、をかけたようなものだ。そんなことはどうでもいいから、ウルトラマンという名のモラトリアムの世界に戻ってくることを期待するような作品だった。

 シン・ウルトラマンはそういう意図を持った、悪い特撮オタクの作った、悪い特撮オタクのための映画だった。だから面白いという人もいる。わかっている。だが、非難の声もあるはずだ。

 技術的な面は置いておくにしても、そう、シン・ウルトラマンは過去を見た作品なのだ。未来を作り出していくという意思はまったく感じなかった。俺たちの好きだったウルトラマンを見せて、皆も古いウルトラマンを見て欲しい、と言っているような映画に感じた。
 それが悪だろうか。悪ではない。だが、あまりにも後ろ向きで、モラトリアムの聖域からの言葉にしか聞こえない。

 シン・エヴァで卒業を促した庵野秀明はこの作品で、またモラトリアムの世界に帰還した。シン・仮面ライダーがどうなるかはわからない。また原点回帰して、モラトリアムの世界に帰っていくのか。
 あるいは、新時代の仮面ライダーとして新機軸を打ち立て、現役仮面ライダーたちにさえ影響を与えるか。

 どちらになるだろうか。
 俺は、思う。
 モラトリアムという楽しいものだけに囲まれて世界に沈殿した老人が、もう一度そこから出てきて、現実を生きていくことを説けるのか。もし、できないなら……それはシン・ウルトラマンの敗北である。
 老人だけではなく、映画を観た人たちがウルトラマンの精神を学ぶのであなく、ウルトラマンを介したモラトリアムに突入するのか。
 今の俺は、それが知りたい。
 俺はむしろ、ウルトラマンから距離を取りたくなった。シン・ウルトラマンを認めて、世に出すような円谷は危険である、とさえ思うからだ。
 
 願わばくば、俺がまたウルトラマンを楽しめるようになること、祈る。シン・ウルトラマンには過去への帰結と言う面白さしかなかった。そうではなく、新しい時代の新しい価値観を提示するような作品であって欲しいと、俺は思う。

 シン・ウルトラマン。素晴らしい映画であろう。だがその素晴らしさは人々をどこに連れて行くか――それは、考える価値のあることではないだろうか……

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