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おひまつぶしに。

怪談琵琶湖一周より 「黄色いワンピース」(ちょっと追記付)

 滋賀県の南東部にあたる甲賀路には奈良時代の南部仏教の枠を取り入れたT宗の寺院が多くある。この話をしてくださった女性Hさんはそうしたお寺にお育ちになった。

 この話は、Hさんのお母さんがそのお寺に嫁いできて間もない頃に体験された話である。
 お寺は小さな山の山間に在った。歩いて上っても十五分ほどで登りきれる程度の山である。 
 平地から寺までは車一台がやっと通れる幅の簡素な舗装路が敷かれている。そして寺から先、山の頂までは人ひとりが歩けるだけの道幅の山道が続いていた。

 頂きの少し手前に平らな場所があり、ちょっとした展望台のようになっていた。太い幹の木の枝が適度な木陰をつくり、その下には地元の企業の名前が入った簡素なベンチが置いてある。
 とはいえ、寺からその場所まで五分と掛からないからハイキングには物足りないし、かといって絶景がのぞめるわけでもない。ときおり近所のお年寄りが散歩に訪れるくらいであった。

 ある日の夜、台所で夕飯のしたくをしていたHさんのお母さんは、突然言いようのない胸騒ぎを覚えた。
 いますぐ外に出なければ。
 たとえ裸足のままでも。そんな激しい焦燥感にかられたのだという。

 お母さんが勝手口から外へ飛び出ると、薄暗い外灯の下、寺の中庭を歩くひとりの女性の姿が見えた。
 髪の長い若い女性で、淡い黄色のワンピースを着ている。

 女性は展望台へと続く山道に向かっていた。
 胸騒ぎはその女性に関係しているに違いない。
 同時に、彼女は自殺をしに来たのだ、という確信めいた予感が全身を貫いた。足元からガクガクと震えが駆け上がった。

 女性はまっすぐに山道に向かっている。
「きっと展望台に行くんやわ」
 お母さんは走って女性を追いかけた。

 女性を追って展望台まで来ると、お母さんは
「死んだらあかん!」
 と、大声で叫んだ。
 無我夢中だった。自分の勘違いだったらどうしようという考えはなかった。
「悩みがあるなら、住職に聞いてもろたらええ。死なんとき。生きてたら何とでもなります……」
 背中を向けたまま佇む女性に、お母さんは思いつく限りの言葉を投げかけた。

(止めてくれてありがとう)
そう聞こえたような気がしたという。

「ああ、よかった」
 お母さんはほっとして息を継いだ。
 とりあえず一緒に寺まで戻ろう。
 しかし、深呼吸を二度三度して再び顔を上げたときには、女性の姿は何処にもなかったという―――。

 のちに住職と義母にその話しをすると、二人とも(今考えれば嫁いできたばかりの若い嫁に怖い思いをさせないためであろう)
「タヌキにでも化かされましたか」
 と笑うばかりで取り合ってくれなかったが、何年もあとになって別の人から過去に一度だけあの場所で若い女性が首を吊ったことがあると聞いた。
 その女性は黄色いワンピースを着ていたという―――。

 
 ※追記。令和二年五月一日。
この話をしてくださったHさんは今六十代。ご両親は他界され、Hさんご自身は現在このお寺との接点はないそうです。
Hさんは若い時分にお母さんから聞いたこの話を何十年も胸に秘めてこられました。ぼくに乞われてこの話をしてくださったわけですが、後日文章にして読んでもらった時に、静かに一筋の涙を流されました。そしてありがとうございます。ありがとうございます、とこちらが恐縮するくらいお礼を言って下さいました。
「母と、母と生きた自分の来し方を、いま一度改めて愛おしく、近くに感じることができました」と。
そして、もうひとつ。
昨シーズン話題になった某連続ドラマは、滋賀の焼き物で有名な町が舞台でしたが、ロケは広く近辺にて行われたそうです。
今は無人となって地域の人がお世話をしておられるというお寺を偶然テレビで目にしたHさん。
「うわっ、懐かしい」
と、思わず声を上げたということです。

 

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