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『感じる』が、自分らしさへ導いてくれる。

自分らしさを表現したらいい

自分の要求に従えばいい

好きなことをしたらいい

ワクワクすることをしていけばいい


なんて言われると

分からないとおっしゃる方がいる。


これらは頭で考えることじゃないんだよね。

感じることだから。


分からないという人は

疲れすぎているのかもしれない。


疲れすぎているのであれば

まずは寝る。

休息をとる。


カラダがくたびれて疲れすぎているのであれば

カラダを緩めてあげる。


そして生活の中で

いま、何を食べたいのか

なんてところから始めてみる。


カラダが発している日常の中での要求を感じてみる

気楽なリハビリのつもりでやるといい。


ぼくらは学校や会社などの中で

感じるという訓練って

ほとんどしてきていない。


知識を学んだり

業務を教わったり

することが学びだと思っている。


実際に野口整体の勉強の過程で

考えない

感じなさい

って言われた当初はぼくもよくわからなかった。


人にふれてみて

ほらっ、ここに穴があるでしょ。

ここに手が吸い付くだろ。

ここに力の境目があるだろ。

ここが黒いだろ。


先生に言われて

示された処に再度手をあてて探してみるんだけど

分からない。

それはもう絶望的にわからなかったよね、最初は。


探しているって時点で

感じられていないってこと。

感じるというのは

いきなりわかっちゃう手応えのことだから。


だから徐々に感じ取れるようになるわけではなくて

ある日、突然

感じられるようになっている自分を発見する。


あっ、これが先生が言っていた『穴』か

これが先生が言っていた『力の境目』か

これが気のつかえの黒硬結か。


感じとるセンサーは突如として拡がる。

ゼロ ⇒ 1 に飛躍する


当たり前のことなんだけど

『感じる』というのは

いつでも『自分が』感じるってこと。

だから、誰かの物差し基準じゃないから

揺るがない。

誰かの正解じゃなくって

自分が感じたものがすべて。

というかそれしかない。

だから最初から先生と同じように感じ取れなくていい。

間違いなどない。


『感じる』ままに行動することを

自分に許可してあげる。

なんとなくこうしたい。

なんとなくこれを食べたい。

バカバカしく思えることなどもやってみたりする。


感じる生活をしてきていないのなら

最初はこのなんとなくって

感覚を楽しみながらやっていみるといい。


活元運動などは

頭をポカーンとさせて

カラダを緩めると

カラダが動きたいように勝手に動く運動なので

感じるというリハビリにすごく適している。


本来はみんな感じているんだけど

感じたままに動かないように制限をしているのは

アタマだからね。

カラダが勝手に動くなんて信じられないって人には

アタマをひっくり返すいいリハビリ運動になる。


感じるということは

〇〇すべきとか

〇〇すべきではない

などの先入観なしでないと働かない。

これが正解などというものを頭の中に持っていると

感じる力は育っていかない。



この文章を書いてみて

我ながらよく、感じるって野口整体の稽古に

向き合えたなあと思った。

始めた当初は

あんなに感じられず、

見えなかったのに。


なぜだろう。


稽古しているときは、

出来るようになるんだろうかって疑問を持つことも

ほとんどなかったように思う。


なぜなんだろう。


野口晴哉が後継指名した田総先生に

温かく見守られながら

稽古できていたってことが大きい。


それに同じような学びを共にしている仲間の存在。

共に希望を語り合える仲間の存在は大きかった。


周囲の人たちが不安を持たずに

見守ってくれていて

信じてくれている環境があったからこそ

揺らぐことなく稽古に向き合えていた。



『感じる』を育てて

自分の要求にしたがって歩みだすと

不思議と

今まで縁がなかった人と出会いが生じる。


自分がワクワクしている在り方、波動が

同じような人を引き合わせてくれる。


その自分らしさの世界の扉は

日常のなんとなく

これをしたい

これを食べたい

という身近なところにある。


山の岩肌から湧き出た清水が

河口では大河になっているように

なんとなくってかすかな感じが

自分らしさへの道筋につながっている。



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