見出し画像

イスラム世界(地理・地中海)

今日のイスラム世界は世界地図で見るとその広大さがわかります。ダカールからジャカルタまでその勢力圏は及んでいます。

画像1

過去にイスラムが他の文明との衝突を経て勝ち取り、また手離してきた領土は、同時に海上交易の可能性をも多く含んでいました。筆者ブローデルは特に地中海における優位性を保てなかったことが、キリスト世界に対するイスラムの立場に決定的だったと分析します。

イスラム勢の及んだ地域

画像2

イスラムが影響力を持つに至った地域は非常に広範囲にわたります。

西洋文明に対してはシチリア、イベリア半島、セプティマニア(フランス南部地中海沿岸)、南イタリアなど。
正教会の支配的な東ヨーロッパではクレタ島、バルカン半島など。

画像3

ヒンドゥー世界に対してはヒンドゥースターン平野やデカン高原。

特にヨーロッパにおいて過去にイスラムは、地中海全域をその支配下におさめています。またその他にも紅海、ペルシャ湾、カスピ海、インド洋などの、広大な海洋への玄関口も確保していました。現在はそのごく一部、沿岸部のみしかイスラム圏に属していません。

イスラム世界におけるインド洋

ところが過去において、特にインド洋では、季節風を利用したムスリムによる交易が盛んに行われていました。彼らの交易船はダウ船と呼ばれ、木造で鉄釘を用いずココヤシの繊維でつくった紐で組み立てられます。9世紀にはすでに広東まで達し交易の範囲を拡大していきます。これらの交易船はヴァスコ・ダ・ガマの標的となり略奪を受けますが(1498)、蒸気船にとって代わられるまで、このインド洋におけるムスリムの安価な交易品は、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人に利用されていたといいます。

このように、イスラム世界の繁栄においてはキャラバンのみでなく、海上交易も重要な役割を演じることとなります。千夜一夜物語のシンドバッド(船乗り、インドの風を意味する)がそれを象徴しています。

イスラム世界における地中海

インド洋と比較してもより重要な影響力を持っていたのが地中海です。地理的にもこの海はイベリア半島、イタリア半島、バルカン半島などのヨーロッパや、小アジアなどの近東、北アフリカ、エジプト、アラブ世界などの諸文明を繋ぐ海上交易の重要海域です。ジブラルタル海峡を抜ければ大西洋に通じています。

初期のイスラム大征服において、シリア、エジプト、ペルシア、北アフリカ、スペインに加えて、実はイスラムは地中海のほぼ全域をその手中におさめていました。もし825年にクレタ島に移住したムスリム(アンダルシア人)が、そこに留まることができていたら、その後のイスラムの運命も変わっていただろうと筆者はいいます。

ところが実際にはこれをビザンツ帝国が961年に奪還、加えてキプロス、ロードスなどの島々をおさえ、エーゲ海へと続く海上航路や、黒海・アドリア海を支配します。ベネチアもこのとき得られた海上航路によってビザンツ帝国と貿易し財をなします。こうして地中海の東側はビザンツ帝国のものとなる一方で、西側は依然としてイスラム世界に属していました。

クレタ島のアンダルシア人に加えて、シチリア島に移動したのはチュニジア人です(827-902)。Conque d'or(黄金の巻き貝)と呼ばれる平野に位置するパレルモは、灌漑の技術によって急激な発達を遂げ、イスラム世界の地中海において中心的都市となります。またムスリムはその他にも、コルシカ島、サルディーニャ島、プロヴァンス、バレアレス諸島にも移り住みます。特にバレアレス諸島は、スペインとシチリアの交易を結ぶ中継地としての役割を演じます。

主人をかえる地中海の富

地中海の利を得たイスラムは、交易によって多大な恩恵を100年以上にわたって受け、多くの沿岸都市が発展することになります。その中にはアレクサンドリアやパレルモに加えて、造船に欠かせない森林を擁するベジャイア(仏語で蝋燭を意味するBougieとも呼ばれ、蝋の交易がさかんであった)やチュニスアルジェオラン、スペインの港アルメリア、グアダルキビル川のほとり、大西洋に面するセビーリャなどが含まれます。

着々と富を築くイスラムは早くからキリスト世界の略奪を被ることになります。10世紀ごろは、その後の状況とは真逆に、ムスリムが富者であり、キリスト教徒は貧者だったのです。特にアマルフィピサジェノヴァなどは賊の巣窟であったようです。この傾向に拍車をかけたにがノルマン人によるシチリア島を征服(1060-1091)です。そしてこれをきっかけにイスラムが独占していた制海権が揺らぎ始めます。

そして極めつけが十字軍の遠征(1095-1270)です。強力なイタリアの船団によって地中海が、さらにビザンツ帝国の領土が奪還されます。十字軍によるエルサレムの征服(1099)や、十字軍国家の建設、第四回遠征によるコンスタンティノープルの征服(1204)の裏で、この地中海の奪還がイスラムから交易の自由を奪うという意味で決定的に重要であったと筆者は指摘します。アッコ(Saint-Jean-d'Acreと呼ばれていた)をイスラムが再び奪回することでキリスト世界はアジアにおける最後の主要拠点を失うことになるものの、キリスト世界の地中海全域の支配は確固たるものになります。

これに対するイスラムの反撃はすぐには始まりません。2、3世紀後、オスマン帝国が再び制海権を回復しようと動き出しますが、プレヴェザの海戦(1538)で勝利をおさめ一時的に地中海を手中にしかけるものの、レパントの海戦(1571)で大敗を喫して地中海は再びその手から滑り落ちていきます。ヴェネチアやフィレンツェ、ジェノヴァの船団に比べ、オスマン帝国のそれは大きく劣っていたのです(イスタンブール-黒海-エジプト間の交易船から成った)。

イスラム世界はその後長期にわたって私掠船による略奪を行い、アルジェはこれによって繁栄することになります。(海岸にバルバリア海賊が駐在していた。ただし海賊船はあっても商用船団を持つことはなかったようです。)このように地中海を巡って権力者間の争いが絶えない一方で、インド洋周辺はポルトガル人の出現(喜望峰の発見からのヴァスコ・ダ・ガマによる至インド洋航路の確立。1498)まで比較的平和的な時を過ごします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?