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vol.19 『クソリプ』の正体。

私の性格の悪い趣味のひとつに『クソリプ見物』というのがありますw。

どこかの謝罪会見や有名人の不倫やヘイト発言、果ては一般の人のツイートなどで起こる議論などに対して、ネットを使っているとどんなに見たくなくても目に入ってくる『クソリプ』。そういう人の『悪意』や『無意識の暴力』みたいな物ってすごい興味深くて、思わずずっと読んじゃうんですよね。

今回はそれは一体何でなんだろう、という自分の中身を掘り起こす回ですw。


そもそも『クソリプ』って何でしょうね。
そもそも『クソリプ』をしている人は自分がクソリプをしているって分かっていながらしているのでしょうか。それとも自分ではクソリプとは思っていなくて『分かっていない人に教えてあげてる』という感じ?あるいは『法律では裁けない人に社会的制裁を与えられるべき』として声(誹謗中傷)をあげている?もしくは誰かの発言から連想した内容を『私はこう思った』と報告をしているだけ、というのもあると思います。

人によって何が『クソリプ』と捉えるかは違うと思うんですよね。
客観的に『誹謗中傷をすることがクソリプ』という人もいるだろうし、『揚げ足をとる議論をふっかけてくる』ということに対して不快に思う人もいると思います。
何となくの『クソリプ』のイメージはあるんだけども、どこからどこまでがクソリプなのかっていうのは、やはり考え方や人によって違うんじゃないかなーと思ったりします。

では私が思う『クソリプ』の定義はというと、『誰かの行動(言葉)に対して返信の形で意見すること』がクソリプだと思うんですよね。

それは内容がどうこうではなく。
だから、きっと私が思うクソリプは悪意のもっと前の段階から始まっていると考えています。

例えば、有名人へのリプライ(返信)。
その人の誕生日だったとして、『おめでとう!』『可愛くなった!』というリプライってよく見るし、そういう(双方向のやりとり)のはネットの長所として認識している人も多いと思います。

でもそれはあくまで『そういうリプライが欲しい時』に限られているんじゃないかなーと思うんです。『これは好意だからきっと喜んでもらえるに違いない』と思ってリプライととばす行為は、自分が感じている好意とは必ずしも同じではないと思うんですね。
もちろん、上記の有名人のリプライが全てクソリプというつもりはありません。そういうリプライが届くことを見越して発言している人も多いと思いますしね。ただ、その中で『特に何かを求めていない』場合にも同じようにたくさんの意見や感想などが届けられた時に、人はクソリプ認定するのだと思うのです。「そんな意見求めてない」と。


そもそも人はそれぞれの『自分の正義(倫理観)』にそって行動していると思うんですよね。例えば『社会的正義を与えた方が世の中の為になる』もそうですし、『調子に乗っているから今のうちに釘を刺して、気付かせてあげたい』もそう。
そういうバリエーションの中に『きっと喜んでもらえるだろうからリプライしてあげる』という部分も入っていると思うんです。これらの行動は全然違うように見えるけど『良かれと思ってやっている』という部分では共通していて、私はそれが『クソリプの正体』なんじゃないかなーと思うわけです。

基本的に人は何を思おうが自由です。誰かの行動を不快に思うこともあるし、何かにたいして不満を言いたいこともたくさんあります。それを思う分には自由だし手帳に書き込んだりしても(誰かにバレない限り)何の問題もありません。当然ですよね。
だけど、それをちょっとでも『外に出した時』には責任が生じるし、それをリプライという形で誰かに伝えた時には『クソリプ』になってしまう可能性が出てくると思うんです。内容がどんなものであれ、対象の人(あるいはそれを見る第三者)が求めていない時点でそれは『クソリプ』なんですよね。

その部分の認識があまりにもおざなりになり過ぎている事が世にクソリプが溢れかえっている原因だと思うし、ネットの世界(には限りませんが)無くならない原因だと思っています。


●『じゃあどうすればいいのよ』問題

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