【第10回】君ありて幸福
執筆:角田 ますみ(すみた ますみ)
杏林大学保健学部准教授、 専門:生命倫理学、看護師
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下町のビルが立ち並ぶ真ん中にひっそりと建つ木造の長屋、その庭先には赤やピンクの花がいっぱい咲いている。この家に一人で住んでいる70代後半の男性、秀雄さんが私の担当だった。
昔、映画関係の仕事をしていたという秀雄さんの家には、所狭しと映画に関する書籍や道具が置かれていた。それらが無造作に置いてある様子から、家全体がまるで道具の製作所か撮影現場のように見える。車や階段の一部、家電製品から犬や猫に至るまで、映画で使われた小道具や装飾品がどれも本物そっくりな作りなのだ。でも、一度手にとって見ると、中が空洞だったり、一部分しかなかったりするのでようやく偽物とわかる。そんな風変わりな家を訪問することが、私にとってひそかな楽しみでもあった。
秀雄さんは無口で頑固な人だった。体調や最近の生活などを訊ねても、たいてい「ああ」とか、「大丈夫だ」とか一言くらいしか返ってこない。会話がなかなか成り立たないのだ。
また、不整脈と慢性心不全に加えて肺気腫を患っているにもかかわらず、すごいヘビースモーカーだった。減煙を勧めても、「私は私の好きなように生きるんだ」と言ってきかなかった。 心不全が悪化して入院したほうがいいと医師に言われた時も、「これ以上長生きはしたくない」と、入院を拒否する。そんな調子だったから、私は、担当になった時、ちゃんとやっていけるのだろうかと不安になった。
しかし、何度か訪問するうちに、秀雄さんは私が最初に思っていたような人ではないことがわかってきた。
部屋はいつも道具で散らかっているのに、訪問する日に限って少し片付けられていたり、客用の座布団が用意されてあったりした。また、よく薬を飲み忘れることがあったので、秀雄さん用に一週間単位の薬箱を作ったことがあった。それを見た秀雄さんは何も言わなかったが、しばらく経って、箱の仕切りなどが脆くなってくると、自分で補強して大事に使ってくれた。私は、ぶっきらぼうな態度の奥に隠れている秀雄さんの温かさみたいなものを感じて、嬉しかった。
そんなある日、秀雄さんのバイタルサインを測っていると、庭先から「ただいまー」という声がした。声のほうを見ると、高校生くらいの男の子が驚いた顔で立っていた。庭先のガラス戸に手をかけたまま、私の顔をじっと見ている。しかたがないので私から「こんにちは」と声をかけると、さらに緊張した表情でもごもごと何か言った。たぶん「どうも」とかそんな感じのことを言ったのだろう。その様子を見ていた秀雄さんがフンと鼻を鳴らして、その男の子に言った。
「タカシ、そんなに人見知りでどうするんだ」
おずおずと縁側からあがってきた彼は、背がとても高かった。その背丈を折るようにして部屋に入ると、手に持っていたスーパーの袋をガサゴソいわせながら、台所に消えた。再び姿を現した時には、お盆にお茶の入ったグラスを3つ乗せてきて、その一つを緊張した面持ちで私の前に置いた。通常、訪問先でそういうものを頂かないのが訪問看護の決まりである。しかし、彼があまりに緊張してお茶を出したので、私は気が引けて断るタイミングを逃してしまった。どうしようと思っていると、秀雄さんが言った。
「おいタカシ、初対面の人には挨拶ってものが基本だろ」
それを聞いたタカシくんは、再びもごもごと自分の名前を名乗ると、ぺこりと頭を下げた。
タカシくんも秀雄さんもそれ以上何も言わないので、私は秀雄さんに「お孫さんですか?」と聞いてみた。
すると、秀雄さんはフッと笑って「違うんだけど」と言った。それからタカシくんに向かって、「おい、お前は一体何なんだ?」と聞いた。
それを聞いたタカシくんは、ちょっと不服そうな顔をして言った。
「秀雄さん、ひどいなー」
「ひどいもなにも、一体お前はなんでここにいるんだ」
「そんなの、知ってるくせに」
タカシくんは口ごもったまま、秀雄さんを睨むような表情で見る。
「だいたい自分のことをちゃんと言えないような奴は、俳優なんかになれないんだぞ」
「俳優さん、ですか?」
私がそう聞くと、タカシくんは困ったように目を逸らしてうなずいた。
「お前、俳優志望のくせに激しい人見知りでどうするんだ。しかも何だか知らねえがヒョロヒョロしやがって」
そう言って秀雄さんがタカシくんの背中をバシッと叩くと、タカシくんはその勢いにムセて咳きこんでしまった。
聞けば、タカシくんはすでにいくつかの舞台や映画に出ている俳優だった。今はドラマに出ているという。このタカシくん、非常に不思議な子なのである。顔は小さくて色白、大きな垂れ目にぷっくりした唇。表情もぽわんとした感じで、どちらかというとフワッとした女の子みたいな可愛い顔をしている。それなのに、その顔と釣り合わないような長身で、私なんかは見上げないと顔が見えないくらいだ。それにとても長い手足がついている。今どきの子はこんなに足が長いものなのかと、タカシくんを見て感心した覚えがある。まるでアシナガグモのようだ。
その長い手をよく動かして映画や演技の話をするタカシくんはとても印象的だった。他の話ではさっぱり会話が続かないのだが、映画や演技の話になると、まるで別人のようだった。ひどい人見知りとは思えないほど、熱く自分の考えを語るタカシくんの目は、さっきまでぽわんとしていた目ではなかった。逸らしてばかりだった視線もピタッと合わせてくる。それまで彼に漂っていたどことなく頼りない感じが消えて、ひどく力強い印象を受けるから不思議だ。
これから所属事務所で仕事があるというタカシくんが帰った後、ぽつんと置かれた椅子用の薄い座布団を眺めながら、秀雄さんが言った。
「アイツは、本当に不器用な奴なんだ」
ある日、秀雄さんのところに昔の仕事仲間が訪ねてきたことがあった。その仲間が連れて来たのが、タカシくんだった。俳優志望の子だけど、いろいろと足りないところがあるから面倒見てほしい、と頼みに来たそうだ。面倒見てほしいと言われても、自分はただの道具係だっただけで、俳優でも何でもない。連れてこられた子は、秀雄さんを前にムスっとした顔でロクに話そうともしない。よく見れば、女みたいな顔でヒョロヒョロしている。こんな子をどうしろというのか。
そう思って秀雄さんが断ろうとすると、仕事仲間は、「この子はすごくいいものを持っているんだけどねぇ、いろいろと足りなくてダメなところも多いから、よろしく頼むよ」と言って帰ってしまったという。残されたタカシくんと秀雄さんは、その後ずっと黙ったままだったそうだ。彼が帰っていった後、もう二度とここには来ないだろうと秀雄さんは思った。どう見ても根性が足りなさそうな子だったからだ。
しかし、タカシくんは時々やってくるようになった。来てもかまうこともない秀雄さんの横で、置いてある制作物を飽きずに眺めたり、たくさんある映画関係の本を読みふけったりしていたという。だんだん慣れてくると、映画についてものすごい勢いで質問したり、語り始めたりしたそうだ。いくら聞いても足りないとばかりに何度も家にやってきては、映画の話をしていった。
変わった子だなと思って、連れてきた昔の仲間に聞いたところ、タカシくんはちょっとしたはみだしっ子のようだった。彼が高校生の時に出た映画で、わずかではあるが女の子の間でちょっとした人気となった。
しかし、ファンの前に出るとひどく緊張するため、ファンサービスが苦手で極力ファンの前に出ようとしない。事務所のマネジャーに再三説教されても、どうしてもそれができないのだ。何とか前に出ても緊張から無愛想になってしまうので、ファンをがっかりさせてしまう。そのうえ、まだ未熟でうまく自分をコントロールできず、すごくいい演技をする時と全く気が乗らず集中できない時がある。そんなムラ気が災いして、使いづらい俳優という認識が現場に浸透してしまい、なかなかいい仕事が来なくなってしまった。それを見かねた映画関係者が、秀雄さんのところに連れて来たのだった。
そんなタカシくんだったが、映画に対する情熱だけは人一倍だった。映画の話が始まると、もう止まらない勢いなのだ。子供の頃から劇団に入っていた彼の夢は、映画俳優になることだった。その仕事以外には考えられないし、それ以外の部分、たとえばオシャレとか遊びとかそういったものは全部後回しでもいい、生活のすべてが映画や演技で埋め尽くされればいいと本気で思っていた。
そんな子だったから、映画について生き字引みたいなところのある秀雄さんに懐いたのも、当然と言えば当然なのかもしれない。でも、人見知りな性格や歳の差を乗り越えてでも、秀雄さんのところに来たいというタカシくんは、第一印象とは裏腹に、一途で熱く明確な意思を持った子だった。
ある日、秀雄さんの机に携帯電話が置いてあった。携帯なんてものは不要だと言い切っていた秀雄さんがなぜ持っているのだろうと不思議に思っていると、「タカシが置いていったんだよ、連絡したいんだとさ」と秀雄さんが言った。秀雄さんは、こんなもの今更使えるかと悪態をついたが、タカシくんが長いオーデションの末に役を獲得できたという知らせにはひどく喜んでいた。秀雄さんのおかげでタカシくんが元気になっていったように、秀雄さんもタカシくんから何か大事なものをもらっているようだった。
二人とも頑固で不器用な人だったから、他人から見れば、もう少し柔軟にうまく生きれば楽なのに、と思われるかもしれない。でもこれが彼らの意思でもあり、生き方でもあった。そんな、世間からは少し浮いていた二人が、こうして心を通わせていることに、縁というものを思い、私は深く慰められる気がした。
それから一年後、タカシくんは大きな舞台に出ることになった。ぜひ秀雄さんに観に来てほしいと願っていたが、秀雄さんの体調はそれを許さないまで悪化していた。慢性の心不全が悪化していて、動くのもままならない状態だったのだ。いつも何かしら作っていないと気が済まなかったのに、今では万年床に横たわったきりだ。秀雄さん自身が、入院はもちろん、これ以上の積極的治療を拒否したので、私たちはどうすることもできなかった。せめて苦痛が軽減するような援助を細々とつないでいくしかなかった。
そんなある夏の日、訪問すると秀雄さんが布団の上に座椅子を置いてよりかかりながら庭を眺めていた。
庭を見ると、タカシくんが汗びっしょりになりながら、何か花を植えていた。
「どうしたんですか?」
「ああ、タカシが、急に庭に花を植えるって言い出して・・・」
秀雄さんが苦しそうな息の下でとぎれとぎれに話す。タカシくんが私に気づいたので、私は縁側に出てみた。赤とピンクの苗たちが、夏の眩しい日差しに負けないくらい鮮やかだった。
「それ、なんていう花なの?」と私が聞くと、タカシくんは笑って言った。
「ゼラニウムです」
その笑顔がひどく頼もしかったので、何だか私は嬉しくなった。この間までヒョロヒョロとして頼りなげだった彼が、いつの間にか大人になっていたような気がしたからだ。
「なんでまたその花にしようと思ったの?」
そう聞くと、彼はちょっとはにかんだ顔で「花言葉がね、いい感じだったんですよ」と言っただけですぐ作業に戻ってしまった。
ゼラニウムの花言葉って何だっけと思いながら部屋に戻ると、秀雄さんが肩で息をしながら、笑っていた。
「アイツ、舞台稽古の合間に急いでやってきて植えてるんだ」
「へえ、こんなに暑いのに大変」
「この後、すぐ戻って、また稽古らしい」
「秀雄さんを慰めようと一生懸命なのね」
私がそう言うと、秀雄さんはまた笑った。その顔を見た時、私はもうすぐお別れの時が近づいていることを悟った。秀雄さんの顔がどす黒い紫色になっていたからだ。呼吸もだいぶ苦しそうである。手足の浮腫もかなりきている。このまま在宅で過ごせば、長くは持たないだろう。
暗澹とした気持ちのまま、もう一度庭を見ると、そこにはひょろっとした体を一生懸命動かして花を植えているタカシくんの姿が見える。それを見たら、なぜか泣きたくなってしまった。今、こんなにも穏やかな時間が流れているというのに、それにはもう終りが見えているのだ。なんとかこらえて、秀雄さんのバイタルサインや呼吸音を聴いていると、庭からタカシくんがあがってきた。どうやら全部植え終えたらしい。手を洗うと慌てて稽古場に戻ろうとする彼を引きとめて、私は聞いた。
「さっきの花言葉ってなあに?」
すると彼は困ったような顔をして、考え込んだ後、上着のポケットから小さな紙片を出した。植木鉢についてくる花の名前が書いてあるやつだ。ゼラニウムの下に書かれた花言葉。
友情。君ありて幸福。
その言葉を見た時、私は思わず息が詰まって声が出なかった。ただ目を見張って堪えるだけの私に、タカシくんが照れたような顔で言った。
「ちょっと恥ずかしいんですけど、これが一番いいなって思って。あ、ちょっとキザですか」そういって彼ははにかむように笑った。
それから2週間後、秀雄さんは亡くなった。身寄りのなかった秀雄さんの葬式を手伝ったのは、昔の仲間とタカシくんだった。タカシくんはずっと唇をかみしめたまま、泣かなかった。お骨が置かれた場所から、庭のゼラニウムがよく見えた。
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