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もう悪夢を見る必要はない

悪夢との長い付き合い

私たちは長い間悪夢を見ている。

怖かった記憶や、緊張した体験、不安や嫉妬、自分へのダメ出し、怒りや恨み、孤独にさいなまれたり、人からどう見られるのかに怯えたり。感じないように努力していても、そうした記憶は小さな刺激でふっと私たちを占領してしまうし、「よりにもよってこの人と?」 という感じで、自分が否定したものを体現したような人が目の前に現れたりする。私たちがそこに反応してしまうのは、もちろん、自分自身の中にその種があるからだ。

そんなことを言うと、今度は原因を自分に感じて落ち込んだり、否定して自分や相手を責めたり、正当化する私たちも出てくる。

今までの私だったら、起こっているその反応から付き合っていき、本音が出てくるまで付き合う方法を取っていたのだけれど、それだけでは根本的に解決しないと分かった。一時、楽にはなるし、本人の経験値が上がることで許容範囲が確かに広がっていくのだけれど、その努力をここから先、何百回と続けていくことになってしまう。だいたい、そこに原因はないのに。

いくら、気持ちや感情に寄り添っても、私たちに平安はやってこない。

そもそも悪夢は起こっているのか

そもそも、悪夢は本当に起こっていたのか。そんなこと言われても、「はい? そんなこと言われても起こったものは起こった」と言うしかないし、証拠のようにその時に負った傷や、記録や、写真や、関わった人の顔をあなたはきっと思い出すだろう。今現在悪夢のまっただ中の人は、「今、充分体験している!」と拳で机を叩いて主張したくなるかもしれない。

そうやって、私たちは悪夢を何度も思い出す。そしてその度に、意識下で自分を罰している。

思い出す度に、どこかが引き裂かれる体験をする。その悪夢のせいで未来も怖くなる。悪夢が思い出されて、現在もリラックスできない。悪夢からは逃れられないと固く信じている。大きい小さいはあれど、悪夢はいつも、私たちの側にあるのだ。

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でも、この写真をよく眺めてみてから、考えてみて欲しい。あなたの悪夢の構造が、実はこの上の写真のような仕組みになっていたとしたら? これが、〈確かにあなたは悪夢を見ている状態〉の真実だとしたら? 私たちは、〈バーチャルの世界にいて、悪夢を見ている自分〉を見ている。

「ちょっと待ってよ、じゃあ、私のこの傷は?」「あの時のこの写真は?」

この写真の女性のように、バーチャル世界を見ている本体のあなたには、傷一つない。傷を受けたのは、バーチャルに登場しているあなただ。そこに身体は存在するけれど、本体とはシンクロしない。『マトリックス』ではバーチャルの登場人物が死ぬと本人も死ぬ設定だったけれど、私たちの本体は死ぬことはない。〈死〉の概念自体もバーチャルの世界限定のものだ。

私たちは自分の本体に戻る旅をしているので、また人生をやり直して体験を積み、私たちはいずれは本体として存在するようになる。この辺りの大切なところが知りたければ、奇跡のコースを学んでみるといいと思う。他の記事でも書いたけれど、宗教でもカルトでも勧誘でもない、たった3冊の本からなる開かれた学びだ。(ついでに言うと、解説本も読んだ方が理解しやすいのでお勧めだ)

そもそも悪夢は起こっていない

そうなのだ。もしこれがバーチャルの世界だとすると、私たちをこんなにも縛り付ける悪夢は、本当には起こっていないことになる。私たちは確かに体験を積んだけれど、バーチャルの世界においてであって、その体験は私たちが本当にどこにいるか、つまり本体として存在することを思い出すためだといわれている。仏教でいうところの解脱だろう。

そんな話をしていると「私は人生が好きだから、輪廻転生から離れたくない」「また次も生まれ直したい」と言っていた友人を思い出す。何の問題も無い。全然いいと思う。みんなそれぞれペースがあるのだ。

ただ、私は「悪夢を体験するのはもうそろそろいいかな」と思っている。悪夢やジレンマや苦悩なしの人生なんて、はっきり言ってどこにもないのだ。エゴの見せる夢の中で、しあわせは実現しそうに見せかけて、必ずできないしくみなのだ。〈人生〉と〈分離の苦悩〉はセットになっている。悪夢から卒業したいと思うなら、このサイクルから出る必要があるのだ。
死んだら解決できるのか? というと、それはまったく見当違いで、死が解脱をもたらしてくれるわけではなく、また違う人物になって体験を積むだけだ。私たちがすることは、この人生で、ぐるぐる回るサイクルから出る選択をすることと、そのために必要な真実の目を養う練習をすることだ。

真実を見る目

別にその練習は大がかりなものではない。しかも、ぐるぐる回り道をせずに済むので、真理に最短で近づける。先に言っておくけれど、私は回し者でもないし(笑)、この学びはお金を巻き上げるためのものでもないし、裏を探っても裏はない。はっきり言って、私が長年取り組んできたどの方法よりも安価で、本人がその気になったらできる、オープンなもので、今のところこれが一番"近い"と感じている。正直、この記事を読んで、この先、素直に学ぶ人がいたとしたら、その人が羨ましいくらいだ(笑)。初めからこれを学べていれば、どれだけ時間もお金も節約できたかと思うと、内心ほぞを噛む思いだが、残念ながら、これまでが私のタイミングでなかったことだけは確実だ。

そんなにいいものなら、誰でも取り組んだら良さそうだけれど、どうやら、それぞれにタイミングがあるみたいだ。輪廻転生を繰り返して体験を積みたい人には、明らかに今ではないだろう。必要な人にはちゃんと必要な時期に届くのだと思っている。難を言えば、突拍子もないような内容に、頭がこんがらがることだろうか。3次元に生きる私たちに、7次元の世界の説明をするようなものなので、そこは仕方がないかと思う。頭の中で理解しようとせずに、ワークを通して実感する方が早い。

バーチャルを見ていることを思い出す

私たちは人生を送っているから、バーチャルゲームのモニターを今すぐ外すというわけにはいかない。でも、自分がモニターを付けていることは思い出せるはずだ。モニターを付けているあなたの本体は、誰にも傷つけられることもないし、何一つ罪を持たない。完璧で、愛に満ちて、唯一のものとして存在している。私も本体の全容は分からないけれど、そのエッセンスは体感として感じられる。そこで感じられるものは、私たちが何かを手に入れたり、欲望を叶えたり、目的を達成したりするような喜びとはまったく違うものだ。

そうして意識するようになってから、私の悪夢はほぼ消えてしまった。長年取り組んでも根強く私にとりついていた悪夢や不安や後悔は、いつの間にか、私の周りを見渡してみても、普段姿を見せなくなった。もしそれらに私が悩まされているとしたら、私はモニターを事実だと錯覚して真剣に見ているだけなのだ。

捕らわれてしまうとき、ゆとりができた隙に、私は私がどこにいるのか、これは真実なのかをチェックしてみる。悪夢から覚めてホッとするみたいに、「あ、そっか、これは私が見ている夢で、真実では無かったんだ」と思い出す。もちろん、思い出してもまだ、強烈なエゴの力によって、また錯覚するけれど、バーチャルの内容を赦し、自分も赦すことを続けることで、次第にその捕らわれた状態から抜け出していく。

この至福感については、説明できる言葉を持たないし、私も〈本体〉については感覚でしか認識できないので言及できないけれど、誰にだって、それを安全に探求し、感じる力があると思う。興味が湧いたら、ご自身で探してみればいいし、奇跡のコースでなくても、真実に続く道はある。道をたどる人に、私の記事が参考になれば幸いだ。

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