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19.コミュニケーション3

“和を以て、貴しと為す”という言葉があります。
 
この規範のようなものは、今も日本人の心に植え付けられています。
 
“和”を大切にしなさい”という意味です。
 
お互いを尊重し、認め合って、協力することの大切さを説いています。
 
怒らず、争わず、協力や協調することが尊いことだという意味です。
 
そして、“話し合いを大切にしなさい”という意味もあります。
 
争いを避けて“和”を大切にするだけではなく、お互い妥協せずに納得するまで話し合うことの大切さを説いています。
 
自身の気持ちや感情を抑えて、ひたすら我慢したり、相手の気持ちや意見を無視したりすることは“和”ではありません。
 
“和”は妥協や同調ではなく、理解しあって調和、協調するという考え方です。
 
由来は、孔子さんの「論語」と聖徳太子さんの「十七条憲法」です(実は、聖徳大使さんは実在せず、蘇我馬子さんが作ったとも言われています) 。
 
孔子さんは紀元前5世紀頃に中国で儒教を確立した人物です。
 
孔子さんの没後に、お弟子さんたちが、孔子さんとの対話を編纂したものが「論語」です。
 
「論語」には、“礼は之 和を用って貴しと為す”と記載があります。
 
なお、儒教でいう“和”とは、秩序を重んじる“礼”において、人々が互いに打ち解けて親しくすることの大切さを説いています。

聖徳太子さんが制定した「十七条憲法」 には、役人たちが守るべき道徳的な戒めが十七カ条で記されています。
 
「十七条憲法」の“和”は儒教における学問の“和”の概念を超えて、仏教の和合の精神の重要さを説いたものです。

“和をもって尊しとなす”は、「十七条憲法」の第一条に登場します。

「十七条憲法」は「日本書紀」に全文が掲載されていて、その原文は漢文で表記されています。
 
第一条を見てみます。

“一曰。以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨亦少達者、是以、或不順君父乍違于隣里。然、上和下睦諧於論事則事理自通、何事不成。”
 
“和をもって尊しとなす”は、漢文で“以和爲貴”と表現されています。
 
実際には、“以和爲貴、無忤爲宗”までが一文で、“和を大切にするのが尊いことで、逆らうこと、争いを起こさないことを根本としましょう”という意味があります。
 
“和”を保つ為の議論や話し合いは重要です。
 
コミュニケーションです。
 
しかし、少数意見が同調圧力によって多数の意見に吸い込まれてしまうことは問題です。
 
この時点で、真の意味で“和をもって尊しとなす”から逸れてしまっています。
 
過去に当たり前だったことで、今となっては、“なかった”ことにされていることがたくさんあります。
 
要するに、今の当たり前の中でも、未来の社会では、“なかった”ことにされることが結構あるのではないでしょうか…。
 
なので、少数意見を消し去ると厄介なことになるというデメリットもあります。
 
同調圧力は、集団統率には便利で有効なことですが、画一化、均質化することによって、個性や活力を失うことにも繋がります。

同調圧力の強さが証明されたのが、新型コロナウイルス感染症が蔓延し始めた時の、日本人の行動ではないかと思います。
 
他国に比べて、ロックダウンなどの手段を使わなくても自主的に自粛しますし、反対にそれができないと“自粛警察”が現れました。
 
誰もがマスクを徹底していますが、それができなければ、“マスク警察”が出てきます。
 
営業制限が強化された時に、飲食業が要請に応じずに営業してしまえば、嫌がらせの紙を貼って休店に追い込みました。
 
その結果、孤立してひきこもりになり、心を病むという人も多く出てきました。
 
“出る杭は打たれる”という言葉は、日本の特徴を見事にまとめた ことわざ だと思います。
 
この ことわざ は、江戸時代から使われるようになったようです。
 
社会で、才覚や能力があって頭角を出してくると、妬みや嫉みで足を引っ張られてしまうということもよく見られます。
 
組織内では良くあることで、その結果、活躍の場を失って辞職したという人も私の周囲でも結構います。
 
今頃、その企業は後悔しているのではないでしょうか…。
 
あらゆる組織には、理不尽や不合理は付きものです。
 
こういった感情も均質で画一的…、“みんな同じ”、“みんな一緒!”でありたいと思うところから出てくるのかもしれません。
 
この社会の中では、異能、異才、異端な能力を持った人が多く存在し、少なからず妬みや嫉みで妨害を受けながら能力を発揮しているのかなと思っています。
 
才覚でうまく振る舞いながら、個性を顕著に出さずに立ち振る舞える人材であれば妨害をかいくぐって成果を出していけるかもしれません。

しかし、“変な人物”、“厄介な人物”に分類されてしまうと悲しいことになります。
 
個性を殺して生きなければならない社会は住みにくいし、生きづらいです。
 
減点主義で、チャレンジしにくい社会は最悪です。
 
常に他人を意識して同調に気を配る社会は窒息しそうになります。
 
悲しいことですが、これが今の日本社会の現実です。
 
その中で平気な人もいれば、平気じゃない人もいます。

そこからも格差は広がり、分断されていきます。
 
“格差社会”は単なる貧富の差だけでなく、様々な社会問題を背景に生じています。
 
“格差”は、子どもの教育、“学力格差”にも繋がり、お金がないことによって充分な教育を受けられず、その後の進学、就職などにも影響を及ぼし、子ども世代にも貧困が連鎖してしまいます。
 
これにより、更に“格差社会”が広がってしまいます。
 
SDGsの17の目標の基本、“誰も取り残さない”社会の実現が求められています。
 
今の日本は世界各国と比較しても、便利で安全であることは間違いありません。
 
今のところは、インフラ、社会保障も整備されており、平和に安心して暮らせる環境は整っている方だと言えます。
 
しかし、人と人の結びつきの薄さに問題があるのかもしれません。
 
コミュニケーション不全です。
 
今の日本は、私の知る限りでは不寛容、無関心な社会です。

元々、強い常識的規範を社会全体に求めているのが日本です。

公共の場所で、人の迷惑になるような行動はしてはいけないという観念は多くの人が持っています。

日本人は特に、他人に対する気遣いを大事にします。

これは、ルールや常識を守ることで、公共の場所でも、お互いが安心して気持ち良く過ごせることが目的のはずです。
 
しかし、今はどうでしょうか…。

今でも、多くの人が非常に統一された常識的判断基準を持っています。
 
しかし、本来の目的である、お互いが気持ち良く過ごせるような社会になっているかと言えば、そうではないかもしれません。
 
お互いが監視し合い、牽制しているような感覚に近いです。
 
幼い子が泣きわめいていると、途端にピリピリした雰囲気になり、迷惑そうな顔をする人が多くなります。
 
そのイライラの矛先は、泣いている子の親に向けられます。
 
相手の状況は関係なく、自分はしっかりルールを守っているのだからということで、周りに対しても高い常識的行動を当たり前のこととして求めます。
 
お金を払っているのだから、それに見合う又はそれ以上のサービスや恩恵を受けるのが当然の権利だと強く主張する人も多いです。
 
今の日本は、社会全体に不寛容が蔓延しています。
 
他人の幸せに無関心で、お互い様という感覚が欠如しているケースも多いように思います。

心に余裕が無い状態です。
 
更に、悪いことに、その影響は、子どもにも及びます。
 
子どもも不寛容でピリピリした人格形成を余儀なくされます。
 
所得も比較的高く、生活レベルも高い家庭であっても、子どもの問題は絶えません。
 
生活に困らないほどのお金の余裕はあっても、心の余裕は無い場合があります。

所得が多い分、激務をこなしているのかもしれません。
 
心の余裕が無いから、その余裕のなさが子どもにも伝わります。
 
学校や保育施設に対して、少しのことでも大クレームになる事例はよく聞きますが、 忘れてはいけないのは、子どももそれを見て育つということです。
 
こんな状況ですから、子どもの問題行動も多くなるのは当然です。
 
最近は、YouTuberになることが夢だと言う子どもをよく見ます。
 
最近話題の、より過激な迷惑行為を競い合って楽しみたいのでしょうか…。

そうではなく、何か意味のあることを発信して世の役に立つYouTuberになってもらいたいものです。

写真はいつの日か…洞爺湖町から伊達市にまたがって連なる有珠山の山頂(壮瞥町)を見上げて撮影したものです。

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