違法寿司

神崎は狼狽えた。社会人2年目の彼にはとても重すぎる瑕疵であった。

彼が前任者から引き継いだ取引先は、令和のご時世にあるまじきいい加減さを顧みもしなかった。卸売業者に勤める神崎は食品加工業の仕事なぞ当然理解していない。故に付け込まれたか、取引先の太田原食品は出荷する食品のあらゆる基準を守っていなかった。栄養素も適当、衛生性もいい加減、流石に異物混入は取り除いたらしいが、卸売業者諸共に信用を失墜させるに充分な大ポカを山と積み上げていた。それも、何年も前から。

哀れにも、このいい加減な取引を神崎は社内上部に報告してしまった。本来出荷拒否できるほどの不良品であっても、前任者は覚書という名の紙切れ1枚で見なかったことにしていたということも。食品衛生法、景品表示法、その他諸々の法規に引っかかるクソ山積みの取引の、パンドラの箱を開けてしまったのである。

当然、全社が震えた。前任者は自己都合退職でいなくなってしまった後であった。神崎はこの大きな山を抱える羽目になった。神崎には会社の内外から怒号が飛んできた。神崎は、最初の1ヶ月はよく耐えた。

神崎の上司達は流石に神崎を可哀想に思った。前任者は部内の鼻つまみものであった。営業の名のもとに遊び歩いてばかりで、報告は遅く、接待費だけ嵩んで成績は悪かった、ついでに汗の臭いが酷かった、そんな彼が唯一持ってきた「美味しい」取引だった…のが、このザマだ。体よく他部署に押し付けたところで会社からドロンしてくれたと思ったところでこの騒ぎである。しかし入社2年目の神崎がこれを知ろうはずもない。

部内に限って周りもよくフォローしたが、3ヶ月目でいよいよ神崎は崩れた。出社直後に衆人環視の中血痰を吐き、いよいよ限界と知るところとなった。その日部長は昼前だったが神崎に帰宅を命じた。

次の日、部長自ら神崎の自宅を訪れた。改めて見た神崎の目は凹み、視点が定まっていなかった。神崎は「すみません」と小さく繰り返した。
「すまなかった」と部長が頭を下げても、神崎は困惑するばかりで、逆に狼狽える様子すら見せた。部長は前任者の経緯を話したが、神崎に聞こえているとは思えなかった。

「そうだ」部長は腹を決めたように呟いた。「今夜、寿司を食いに行こう。会社の経費で落としてやる。好きなだけ食うがいい」「会社のお金でなんて」神崎は逆に震えた。「こんなクソ取引を押し付けてしまった俺と、そうと知らずお前を責めるお偉方が悪いんだ。俺からの謝罪の一つでもある。来てくれないか」謝罪、そしてお願いを込められて断れるほど、神崎の自我は残っていなかった。言われるがまま、19時に指定の飲み屋街の入り口にスーツ姿に立っていた。

「こっちだ、こっち」部長が神崎を手招いた。神崎は死んだ目のまま平伏して駆けていった。「今日は好きなだけ飲んで食うがいい、遠慮は要らん」部長に背中を叩かれても、神崎は怯えるばかりでニコリともしなかった。

平時であっても部長とのサシ飲みは身が縮こまる思いがする神崎であったが、部長に誘われるまま歩くうちに、繁華街を外れ、住宅街の奥に進み、見覚えのない地区まで着いた時にはいい加減生きた心地がしなかった。
(パンドラの箱を開けた俺はとうとう命まで取られるのか)と大真面目に諦念した。
「ここだ」不意に部長がみすぼらしい一軒家の扉を開けた。どう見てもただの民家だ。それを「今日はここで飲むぞ」と言って、部長は遠慮もなしに入っていった。(こういう処理担当の「やくざ」でもいるのかな)と神崎は思った。

神崎が中にはいると、予想に反し、そこは本当に本格的な寿司屋であって、先客こそいないものの小綺麗な出で立ちの老寿司職人が姿勢良く屹立して待っていた。「こちらが今日のお客様で?」職人が微笑みながら尋ねると、「えぇ、よしなにお願いいたします」と部長は厳かに頭を下げた。「俺も新入社員の時、当時の課長に奢ってもらった店だ。安心しろ、色々とお墨付きだから」

席に座るなり、二人の目の前には上品な焼き物の猪口が置かれた。どことなく現れた女将が香りの高い酒を注いでいった。日本酒を好かない神崎であったが、断れるはずもない。「まずは、お疲れ様でした」部長が猪口を掲げ、「お疲れ様でした」儀礼的に神崎が合わせた。口先で吸った日本酒は、深い香りの割には、神崎をして飲みやすいと感じる軽い味わいであった。

おまかせで頼んだ寿司は5貫ずつ、サーモン的ななにかとマグロの赤身、残りは神崎の知らない白身魚が3種類であった。ネタがわからないものの、精神が擦り切れた神崎にあって、ようやく心動かすに足るほどの美味であった。しかし、神崎の顔が綻ぶにつれて、まるで反比例するように、部長の顔が陰っていくのであった。神崎は気付かず、3杯目の酒を干した。

おまかせの5貫を平らげた後、部長は「次、お願いします。どうかコイツを、お願いします」頭を下げて職人に告げた。神崎は何のことか分からなかった。「お話を伺いましょうか」職人が神崎に尋ねた。「神崎、今のお前の仕事の話を全部するんだ。お前のクソ取引の事を、特にヤバい所は一つも漏らさず話せ。そうしないと大変だぞ」部長は顔を青くしながら神崎の額を小突いた。

守秘義務とか、いろいろ神崎の頭をよぎるものはあった。それを部長は一切無視しろと怒鳴った。「いいから、早く。俺も耐えられん」ここまで言われては神崎も言いなりであった。神崎は職人に悩みの一切を語り始めた。

「承りました」職人は全て聞き終えると、おもむろにシャリ飯だけを引っ掴み、立て続けに4貫握ってみせた。部長の目の前に、鈍色に輝く何かしらの魚の寿司が置かれた。

「部長、これは…?」「黙ってろ」部長は額の汗を拭うと、なんと、一息に4貫、立て続けに飲み下した。「…ごちそうさまでした。お勘定にするぞ、神崎」「は、はい…?」部長は会社の切手で支払いを切ると、そそくさと二人で店を出た。

神崎が気がつくと、翌日の朝、会社の入口前に立っていた。腕時計の時間を見ると、確かに出社時間であった。訳がわからないまま、神崎は出社した。今日までが期限の始末書が3件あったはずだ。

ところが、神崎のデスクの上に山積みになっていたはずの始末書関連の資料が、一つ残らず消え失せていた。確かに社内的にやらかした人間であってもここまで嫌がらせするかと思ったが、よくよく見てみると、提出したはずの報告書すら見当たらない。パソコンを付けて見ると、山のように来ていたはずのクレームメールも、取締役からのお小言メールも何も残っていなかった。

神崎は部長の出社直後話を聞きに行った。部長は何も仕事をする前から大汗をかいていた。ただ、「何も言うな、全て忘れろ」とだけ言われた。神崎は、自分を散々苦しめたクソ取引の痕跡だけが綺麗サッパリ消え失せたことを不思議に覚えながら、自分が救われたことだけを安堵した。

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その晩。

あの寿司屋を訪れる小太りの男があった。身につける腕時計、スーツを見る限り、神崎など比較にならないほどの金持ちであろう。

「大将、今日も聞いてくれ。どうみても法に触れる契約だが、金にものを言わせて結んでやったんだ。具体的には独禁法だな、下請けはコキ使ってなんぼだろ」男は悪びれもせず詳細に語りだした。

「承りました」職人は小さな巻物を広げ、何かをメモした。「…つきましては、本日はどれをお召し上がりになりますか?」「ふゥーむ」男はしばらく目を細めていたが、「今日はこれとこれにしよう、労災の隠蔽が2件。うちは労災なんて関係ないからな」「承りました」職人がシャリ飯を掴むと、いつの間にか2種類の寿司が3貫ずつ、計6貫握り上がった。

「しかし美味いシステムだな、とりあえず『罪』を棚上げしておいて、ネタにして食ってもらったらなかったことになる、食されなかったら本人に返ってくるなんて、まるで落語だぜ」2貫ずつ一息に平らげながら、男はホクホク顔で微笑んだ。「俺の触法行為も、ここの誰かに食ってもらってるおかげで全部チャラだ。黒いビズもこれで真っ白、適当に現実改変してくれる。その代わり俺も誰かの罪を食ってるわけだが」「何らかの形で旦那に降りかかりますよ、いつも申し上げておりますが」「けっ!労災のツケが経営者の俺にどう障るってんだ?」猪口の酒を呷り、「俺が心配ならまずい寿司を握るんだな、『罪の握り』は本当に美味いんだ」切手を切ると男はそそくさと帰っていった。

入れ替わりに、老いた細身の男が入ってきた。「今日もいいかな、お偉方にワイロを3件ほど送っててね」「伺いましょう」上品な猪口が供された。

【完】

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