【ブレイクファスト・アット・ネオサイタマ #1】

【ブレイクファスト・アット・ネオサイタマ #1】

斜里寿司

1
ケミダは夜明け前に目を覚ました。
すぐさま鉄錆の混じった水で口を濯ぎ、社の作業衣に腕を通す。毎日繰り返す動作だけあって淀みがない。
作業衣は垢と埃にまみれ、見るからに不衛生でボロ雑巾のようだ。しかし彼には洗濯するための石鹸もないし、水道代も払う余裕もない。コインランドリーなどもってのほかだ。
彼はサカイエサン・トーフ社に勤務してから既に20年近くにもなるが、待遇は年々悪くなる一方だ。ボーナスなど出なくなって久しいし、去年なぞはジェネレーターの損傷の補修費用といって給料からかなりピンハネされた。もはや毎日の飯にも困る有様であった。

彼はテーブルの上に置かれたトーフを見て逡巡した。激安四連トーフ、カルテット。すでに2つが食されている。
今日は朝食にしてもいいだろうか。昨晩も二晩前も、残業で疲れ果て何も口にしていない。しかし今月の懐具合もかなり厳しい。そのうえ給料日まではまだしばらくある。
昼食ならば社員食堂で安い飯が食えるが、これがまるでワタアメ・スナックのように軽く、まるで腹にたまらない。
彼はしばらく思い悩み、結局カルテットの一つの封を開け、ショーユも付けずに食った。
ゼリーのように虚しい歯ごたえ、カッスカスの栄養、鉄錆よりも味気ない風味、しかし「食した」という事実が、それだけが彼の精神を奮い立たせた。
彼は玄関を出て工場へ歩きだした。ネオサイタマはまだ夜明け間もなく、暗澹とした空に広告ツェッペリンがひときわ眩しく輝いていた。


2
ウェムラは顔を洗い終えると、キッチンへ向かいケトルを火にかけた。
メイド用オイランドロイドがいつものように合成栄養アミノサプリメントを用意し、立ち去った。去り際のオイランドロイドの頬に、ウェムラは軽く口づけをした。彼女はすこし恥ずかしがって、しかし奥ゆかしく主人に抗議した。プログラムと学習による模倣だが、ウェムラはそれでも満足した。
彼のなけなしの愛情は毎朝このように消費されるのだ。

ケトルの湯が湧いた。ウェムラはケトルを火から下ろし、手元にあるオーガニック・コーヒー豆を保存袋から一掴み取り出し、専用のミキサーに掛けた。豆はすぐに荒く挽かれた。彼はそれを布フィルターに移し、手自ら湯を垂らし始めた。
今だけは、今この瞬間だけは彼だけの時間だ。彼に最も合うコーヒーを自分で淹れる時だけ、彼は彼自身に立ち戻ることができるのだ。

淹れたてのコーヒーを持ち、彼は応接間に向かった。早速取引先からIRC通信要請が来ていた。しかもヴィジュアル・インターフェイスを介した対話ときた。
望むところだ、朝食時でさえビジネス可能な自分をまた証明することができる。
ウェムラはカメラの向こうの相手に笑いかけた。「えぇ、今朝もこのようにコーヒーだけですよ。ブラジリア社のコーヒーを飲むと、みるみる元気が湧いてきますね!私は商品を自分で実証します。間違いありませんよ」
相手は手を叩いて喜び応えた。「えぇ!ウェムラ=サンがそのようにしてくれるお陰で、提携する我が社の信頼もウナギ・ライジングです!いやいや、儲かりすぎて困ってしまうくらいだ!」
「ヒヤリ・ハット!ゼイタク!」「イヤハヤ!ワハハ!」二人は笑いあった。
実際ウェムラが始めたコーヒー事業は莫大な利益を得ていた。ウェムラはメキシコのブラジリア社からコーヒーを輸入し、ネオサイタマの卸売業者に卸している。
『コーヒー1杯で朝食のコメ要らず!24時間ビジネスな貴方にオーガニック・精力剤!』この宣伝文句は瞬く間にネオサイタマに浸透した。ウェムラ自身が「朝食はコーヒーだけ」というパフォーマンスを徹底した効果も少なくない。
何回雑誌や新聞が取材しても、ウェムラは朝食にコーヒー以外のものを口にしていないように見えた。しかし実際は、足りない栄養をサプリメントで補っているのであった。先程オイランドロイドが渡した合成栄養アミノサプリメント、これがウェムラの身体を保たせている。しかしそのことを知っているのはウェムラと、オイランドロイドだけなのだ。
ウェムラはIRC通信を終えるとほくそ笑み、半分ほど残ったコーヒーにサプリメントを放り込んだ。サプリメントはすぐに溶けた。ウェムラは鼻をつまんでコーヒーを飲み込んだ。直後、彼は盛大に咳き込んだ。


3
ハコネ・ジャンクション。古びた倉庫が並ぶこの一帯は、電子戦争直後こそ賑わっていたものの、経済の中心がオールド東京湾の湾岸から内陸部に移行して以来はすっかり寂れてしまった。今ではここを利用するのは極小企業か、落ちぶれたヤクザクランのみ、すなわちマケグミでありながら辛うじて生き長らえている者達だけである。
アヤセ・ジャンクションに経済の主導権を奪われてからというもの、ハコネ・ジャンクションはほぼ無秩序と成り果てた。無謀な規模拡張から始まり、参入企業の自由化、警備費用の削減、経営再建のあらゆる策は裏目に出て、遂には無法者とアナーキストの巣窟と化した。
彼らは用心のない倉庫を夜な夜な襲い、物資を略奪するのだ。利用者はヨージンボーを雇うか、大仰なトラップを大量に仕掛けるなどの対策が必要になる。それすらできない者は、ネオサイタマの時流にトドメを刺され死ぬだろう。

しかしアナーキスト達もここ数年は鳴りを潜めている。彼らを一掃した勢力がいるのだ。見るが良い、彼らはもうすぐ現れるだろう。
磁気嵐に覆われた空が僅かに明るくなった、ネオサイタマの夜明け時、ハコネ・ジャンクションの一角で一際賑わいを見せる倉庫があった。否、それは隣接する倉庫と一見見分けがつかないが、中身は大いに改造され、あたかもパーティ会場のようになっているのであった。
入り口には『イネダ食堂』とカンバンが掲げられている。中には古びたトタンのテーブルと、パイプ椅子が並んでおり、またその大半にいずれも屈強な男が腰掛けているのだった。
彼らは皆違法マグロ漁船の乗組員である。彼らは夜明けにハネ・ジャンクションから船出し、海上がすっかり明るくなる前に釣果を出して帰港する。出港前にこの『イネダ食堂』で温かい飯を食い、腹ごしらえをするというわけだ。
当初ハコネ・ジャンクションには食堂など存在しなかったが、違法マグロ漁業がネオサイタマに蔓延するにつれ、ハコネ・ジャンクションから出港する密漁者が多くなっていった。そこに出店したのが『イネダ食堂』である。めし処の存在は更に違法マグロ漁業を賑わせた。そうして屈強な男たちが湾岸に集まった結果、ここを根城にしていた無法者達は自然と放逐されてしまったのである。

「ネギ・ライスふたっつ、よこせ!」縦にも横にも大柄な男がカウンター越しに怒鳴った。「おぅ」と返すは初老のコック、大鍋から『ネギ・ライス』をドンブリ二つによそい、盆に乗せて突き出した。「100の二つで200」「ちっ」彼は舌打ちしながら代金を支払い、テーブルへ向かった。列の後ろに並んでいた男が鼻をつまんで、追い払うような仕草をした。
『ネギ・ライス』とは文字通り、ネギとコメを一緒に煮て合成ショーユで味付けしたものである。ネギのアク抜きをしていない上に最も安価な合成ショーユを使っているので猛烈な臭みがあり、「犬も食わぬ」と言われるほど低俗な食べ物であるが、彼らは一向に気にしない…気にするほどの余裕もないのである。とにかく腹持ちの良さ、温かい食べ物、そして緑モノで栄養を整えなければ何時倒れるとも知れないのだ。
「ライスとフライド・カラス」「あいよ」フライド・カラスもネオサイタマを飛び回るカラスを撃ち落として揚げたもので、到底食えたものではないのだが、彼らにとっては貴重なタンパク源である。

彼らはテーブルに着くなり、自前のワリバシを懐から取り出して自分の飯を掻っ込むのだった。しかし落ち着いている暇などありはしない。
「おい、ヒタキ=サン!いつまで食ってんだ!ボスがもう待てねえってよ!」「アイエッ!?あと一口待ってくれ!」もたもたして仲間の乗組員から急かされる者あり。
「どこだ!?どこだエイツミ=サン!」「俺のヒガセ=サンはまだ食ってんのか!?」仲間を探す者あり。
「テメェ!俺にぶつかって、謝りやがれ!俺のシンコ・ヅケが落ちたじゃねえか!」「ア?ぶつかったのはテメエだろ!イヤーッ!」「グワーッ!?」喧嘩あり…いや待て、待て!アブナイだ!誰か止めろ!傷害としてデッカーに嗅ぎつけられたらまずいぞ!

諸々の喧騒は1時間もしないうちに収まった。彼らは嵐のように食いに来て、貪るだけ貪ると嵐のように海へ出る。何人が帰ってくるかは誰も知らない。幸運にも生き延びて釣果を揚げた奴は明日もここに貪りに来るのだろう。
店長のイナダは後片付けをしながら、今朝の利益を計算してほくそ笑んだ。そして鍋に大量に残ったネギ・ライスを見てげんなりした。

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