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人生、出会い

記事を読んでくださっている皆様、はじめまして。
2021年7月からヘラルボニーに入社致しました、
伊藤 琢真(イトウ タクマ)と申します。

振り返れば、現在セールスマネージャーとして活躍している泉さんから、
「ヘラルボニーに入ってほしいって言ったらどう思う?」
と何とも奥ゆかしい表現でヘラルボニーに誘われたのも実家の自室だったなぁ、なんてことを思い出しました。脱線しそうなので、本題へ。

せっかく、記念すべき初稿なのでこれから一緒に挑戦をするヘラルボニーの仲間に向けて、これからお力をお借りするであろう関係者の方々に向けて、ヘラルボニーを応援してくださっているファンの方々に向けて、そして未来の自分に向けて。
私がどのような想いで、ヘラルボニーでの挑戦を決意したかを綴りたいと思います。

少々長くなってしまうかもしれませんが、お付き合いいただければ幸いです。

「異彩」との出会い

さて、ヘラルボニーがMISSIONとして掲げている言葉。

「異彩を、放て。」

この言葉が私は大好きなのです。

私には、障害のある年上のいとこがいます。
年は少し離れていますが、従兄弟が祖父母の家に来るらしいという噂を聞きつければ、当時幼稚園児で遊ぶことに忙しかった私は、友達と遊ぶ予定をキャンセルし、スケジュールに調整をつけ、母に車を出してもらい、時には電車を乗り継ぎ、あらゆる手段を駆使して、祖父母の家に行き、朝から晩まで一瞬たりともそばを離れず、いとこがクタクタになるまで遊んでもらっていました。

「ベッドの上でプロレスする!」
「次は外でサッカーする!!」
「少し家で遊んでから、また外でキャッチボールね!!!」

今思えば少し過酷すぎやしないか.....と思うほどの要求に、嫌な顔をひとつも見せず、いつも笑顔で私のことを楽しませてくれていた従兄弟。
ベッドで眠る時も常にとなり。将来結婚してくれと言ってしまいそうなほど魅了させられた大好きないとこ。

しかし、年を重ねるにつれいとこは部活や学校で忙しくなり、幼稚園児だった私もいつの間にか中学生に。私は私で小学生の時から始めた陸上の部活動に打ち込む日々。いとこと会う回数が自然と減っていき、年に一回会うか会わないかという状況になってしまいました。

そんなある時、親から
「いとこは統合失調症らしい。」
ということを聞かされました。

疎遠になってしまっていたいとこの状況を伝えられた私は、ただ漠然とその言葉を、それ以上でも以下でもなく受け止めました。

しかし後日、私は衝撃的なものを目にしました。
それは、そのいとこが描いたという一枚の絵。

私には到底想像もできないような世界観で描かれたその作品には、当時絵画にさほど関心がなかった私でさえ強烈な印象を残すほどのインパクトがありました。

こんな凄いものを生み出す才能があったなんて....。

それが私の「異彩」との出会いでした。


ヘラルボニーとの出会い

時は進み、社会人になって数年経ったある日。
当時住宅メーカーの営業として働いていた私は、先輩の結婚式の二次会に参列していました。その会場で、当時同僚(現ヘラルボニー:セールスマネージャー)だった泉さんが着けていたネクタイに目を奪われたことを今でも鮮明に覚えています。話を聞くと友人の会社で作ったネクタイで、障害のあるアーティストが描いたアートをネクタイにしているとのこと。

!!!!!!!!

その瞬間私の頭の中にいとこの描いた作品が頭の中を駆け巡りました。
あの衝撃をこの様な形で世に送り出している人がいるなんて!!!!
すぐに興味を持った私は結婚式の二次会の最中にも関わらず、ヘラルボニー(当時はMUKU)のサイトを検索して胸をたかぶらせていました。(先輩、ごめんなさい...)

この活動が広まる世界は、なんて素敵なんだろう!!!

ヘラルボニーとの出会いは、そんなことを感じさせてくれる素敵な出会いでした。


私がヘラルボニーで働く理由

ヘラルボニーにジョインすることが決まったあと、なぜかわかりませんが私が大好きないとこと会う機会が増えていきました。
何の因果かわかりませんが、不思議なものですね。

そのいとこの側には、いつもいとこにぴったりとくっついて離れない、当時私と同世代のいとこの姉の子がいました。
いつも人を魅了するいとこ。

障害があろうが、無かろうが、私の大好きないとこは何も変わらず、大好きないとこのままです。

障害という枠にとらわれて、息苦しさを感じてしまう社会。
その枠の中で埋もれてしまっている「異彩」を世に放つため。
一人ひとりがしゃんと胸を張って生きていける社会を目指して。


異彩を、放て。


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(いとこ作)


株式会社ヘラルボニー 伊藤 琢真


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