兄と私とヘラルボニー
こんにちは!4月からヘラルボニーに入社しました、山崎由佳(やまざきゆか)と申します!1年半ほどインターンをして、この春、新卒で入社しました。
北海道の知床半島の近くの小さな町で育ち、実家は仔牛牧場で、社内で使うSlackのアイコンは、牛さんとのツーショットです。(私の髪をワラだと思ったらしく、食べられています。)
家族には、牧場を営む両親、2人の兄弟、5年前に亡くなった兄がいます。
なぜヘラルボニーに入ろうと思ったか、それはこの兄の影響が大きくあります。
他界した兄は、私をとても可愛がってくれて、心から尊敬していましたが、今はあまり思い出すことはありません。
命日やふとした時に思い出して、「私にはもう一人お兄ちゃんがいたな、優しくて大好きだったな。」とじんわり思い出して、暖かい気持ちになる程度です。
日々、目の前のことに精一杯で、今は関わることがない兄を思い続けることはとても難しく、でもそれで良いと思っています。頻繁ではないけれど、大切だったことを思いだして、他の家族を大切にする方法を考えたりできれば充分だと感じます。
でももちろん、まったく思い出せないのは、寂しいし、兄が亡くなった時に教わったことも、忘れていってしまうような気がします。
だから、思い出せない時があっても、そんな自分を否定せず、時々また思い起こさせてくれる。そんなきっかけのようなものが身近にあったらいいな、と考えています。
会えない人を想うこと
当時20歳だった兄が亡くなったのは、私が高校1年の時でした。
釣りが趣味で出かけたきり、事故にあってしまい、それから家に帰ることはありませんでした。
数ヶ月間、家のドアをあけて、今に帰ってきてくれるんじゃないか、ついそんなことを考えたり、どこにいても突然に涙が出てきてしまったりする日が続きました。
しばらくして、家族や友人の支えがあり、元の生活に戻った時、悲しみと別の感覚が、自分のなかに残るようになりました。
それは「兄のことを忘れてしまう」という感覚です。
どんな風に笑っていたか、声やにおい、何気ない仕草、最後に何を話したか。
どれだけその人を愛していたかに関わらず、一切会わなくなってしまうと、人をこんなにも思い出せなくなるのかと愕然としました。
兄のことは大好きで、本当に尊敬していました。
どちらかというと不器用な方だったので、何事も人の数倍時間をかけて習得する努力家。困っている人や生き物に、自分のことは省みず、当たり前のように手を差し伸べます。
小さい頃に他の兄弟にいじめられて、私が泣いているときも、涙と鼻水で服をぐちゃぐちゃにされながらも、やさしく抱きしめてくれました。
食の好みや趣味など細かいところも、兄弟のなかで、私と兄が1番よく似ていました。
兄のことを、できればそのままに覚えていたい。
私にとってその記憶は、兄が20年間生きていた証しで、これからも兄を感じられる心の拠り所でした。
無くなったら、本当にどこにもいなくなってしまうような。
そんな恐れや焦りと裏腹に、忙しい毎日のなかで、兄を想う頻度は減り、思い出も徐々に鮮明ではなくなっていきました。
薄らぎ、思い出し、また薄らぎ、という繰り返しで、無力感や申し訳なさ、自己嫌悪のような気持ちでいっぱいになり、「あれだけ大切な人だったのに、忘れるのはなぜ?」と自問しました。
クローゼットに残っていた兄の服のなかに顔をうずめ、匂いを嗅ぐたびに、また忘れていた、と心苦しく、何度も自分自身を責めました。
今になって思えば、故人を忘れるのは防衛本能だなとも思います。
当時も心のどこかで、しょうがないことなのかな、と感じていたかもしれません。
ですが、15歳の私は、それを「薄情」「不誠実」など以外の言葉で捉える方法を知らず、大切に想いたい存在を忘れゆく自分を、どうしても許せず、受けいれることができませんでした。
常に想えなくても大丈夫
話は変わりますが、私は昔から好奇心が旺盛で、色々な方向に関心が向きやすく、一つのことに意識を向けるのが苦手なところがあります。
この人のために、このテーマについて、考えたい。自分ごととして何かをできたら。
日々そう思うことがあっても、注意を向けつづけられる対象や使える時間は限られていて、気づくと目の前のことで精一杯になってしまい、大切にしたいものを大切にできない自分をもどかしく感じていました。
それは例えば、離れて暮らす家族、卒業以来ぷつりと会わなくなった親友、直接の関係がないとしても世界のどこかで誰かが苦しんでいること。自分の習慣、思考、感情などでもあると思います。
もちろん、全てについて考え行動することなどはできないので、選択し、割り切ることも必要で。
でもできれば、少しでも、定期的に、「日常的に関わらないけれど大切なこと」に、時間を使ったり、想いを馳せられたらいいのに、とよく考えたりしていました。
そしてその最たる例が、兄でした。
そんな私に転機が訪れます。
一昨年の夏、広島県に行ったとき、広島に住む友人が広島平和記念公園を案内してくれました。
緑が豊かな気持ちの良い公園で、友人いわく、小中学生が遊んでいたり、おじいちゃんが日向ぼっこをしたり、みんなの憩いの場になっているそうです。
でも、ふと慰霊碑の前に立つと、原爆ドームと核廃絶のモニュメントが一直線に並び、印象的に目に入ってくるのです。
後から知ったのですが、設計した丹下健三という人は、原爆で両親を亡くし、「平和を創る工場」として公園を作ったそうです。
被爆者や核兵器廃絶への強い想いが込もっていて、訪れた人が日常の延長線上で、平和を考えてみることができるように作られている。そう感じました。
純粋に綺麗だと心惹かれ、そこに行くと元気に明るくなる。
そして平和を創る工場としての役割も一緒になっている。
それって本当にすてきだ、と思いました。
そして、とても安心しました。日常的なものや場所のなかに、「非日常的で大切なこと」を教えてくれるきっかけは作れる。だからこそ、思い出せないときがあってもいいんだ、とハッとしました。
人によっては当たり前のことかもしれませんが、そう気づいた時、自分を初めて許し、受け入れられたような気がしたのです。
そう思えるようになると、本当に素敵な思い出や、重要なことは心に残っているということにも、自然と目を向けられるようになりました。
また、平和公園のようなものが、社会には他にもあって、助けられているのだとも思いました。
そんなものがたくさんあれば、今よりも少し、胸を張って毎日を過ごせるんじゃないか。
かつての私のような人がもしいるとしたら、必要以上に自分を否定したり、悲しんだりせずにすむんじゃないか。
この日から、漠然とですが、そんな何かを私も作れるようになりたい!!と思うようになりました。
そして、ヘラルボニーのインターン募集について、ヘラルボニー社員の西野彩紀さんから聞く機会があり、インターンをはじめました。もともと絵を描くことが好きなこと、精神障害とともに生きる親友の存在などもあって、メンバーとなり、今に至ります。
ヘラルボニーで活動して
2年近くインターンをしたなかで、少しずつですが、私の生きる世界と、福祉というこれまで関わりの少なかった領域が重なりつつあることを、とても嬉しく思っています。
ヘラルボニーには、知的障害のある方が兄弟などにいるメンバーも多いですが、私はそうではありません。
知的障害のあるいとこが一人いるのですが、数年に1度しか会うことがないためか、身近に感じることはありませんでした。
大学時代、心理学を専攻するなかで、精神障害だけでなく、知的障害についても触れ、自分に何ができるだろうと考えたこともありました。
ですが、それはいつも授業の枠を超えたり、普段の生活に何か変化が生まれるところまでいくことはなく、なぜかいつも遠くの世界の出来事のようになってしまうことに、違和感があり、その溝を埋められたら良いのに、と感じていました。
ヘラルボニーのすべての取り組みの背景には、福祉や障害、アートという、接点を持ちづらいものとの目に見えない境界線を溶かし、新たな文化を作りたいという想いがあります。
原体験がない私がメンバーで大丈夫かと、変な躊躇いを感じていたときもありましたが、「既障害者」「未障害者」と人を分ける言葉もあるように、高齢者福祉などを含めると、両親、友人、私自身、これから出会う大切な誰かが、そう遠くない将来、” 障害 ”と呼ばれるものを持つ日は、必ず来るはずで。
そう考えてみると、原体験の有無に関わらず、遅かれ早かれ、私含むたくさんの人たちが人生で向き合う、大切なテーマなのではないか、心からそう思います。
福祉もアートもビジネスも、まだまだ勉強中ですが、
尊敬するアーティスト、ヘラルボニーの大好きなメンバーたちと共に、
今まで関わりの少なかった人やものに想いを馳せられる機会を、
美しく暖かい彩りに溢れた世界を、
少しずつ、着実に、その過程を楽しみながら、作っていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。
山崎由佳
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