珈琲
「良い珈琲、それは悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、愛のように甘い。」ータレーラン
有名なこの一節を思い出しながら、これを書いている。
(いや、こんなことしてる場合じゃない。あと1時間で出かけなくてはならない。※4)
我が家は、小学生のうちは珈琲は飲ませてもらえなかったので、はじめて珈琲を飲んだのは中学生の時。ミルクとお砂糖たっぷりで。
そのあとは、紙コップで提供される、自動販売機の甘いカフェ・オ・レにハマっていた時期もあった。
そして高校生になった時、両親の猛反対を押し切って、わたしはカフェ(※1)でアルバイトを始めた。
大きなお家の、優雅なマダムが趣味で経営するそのカフェは、ピアノが置かれていて、壁に飾られた絵画も、調度品もとても素敵で、アルバイトに行くのがとても楽しみだった。
マダムが一杯ずつ丁寧に淹れてくれる珈琲の香りに惹かれて、わたしはそこで「ブラック」をおぼえた。
思えばわたしはカフェレストランの好きな少女だった。
当時、わたしが住んでいた田舎町には、戸建ての素敵なレストランやカフェが沢山あった。
ログハウス風だったり、ビクトリアン様式を模したものだったり、ケープコッド風だったり、そのアイデンティティを建物一棟で表現した個性的な店舗も多かったように思う。(※2)
そして、お小遣いを持ってそれらのお店に通いながら、カフェで流れているアメリカンチャートやJAZZ、日本のニューミュージックを熱心に聴いていた。これはわたしの音楽嗜好の第二次反抗期であり、現在の礎になった期間でもあったと思う。(※3)
おとなになってからは、わたしの生活の中には、いつも珈琲があった。
学生時代は、わたしのアパートのちいさなキッチンで珈琲を淹れてくれた、ギタリストのボーイフレンドと。
会社員時代は月に500円の会費で当番制で珈琲を淹れて、同じ戦場を駆け抜けた同僚と。
シンガーになってからは、JAZZ喫茶の身の丈ほどのスピーカーから鳴り響くビル・エヴァンスと。
ついに結婚しなかったあの人とは何千杯もの珈琲を。
そして、誰かに珈琲を淹れてあげることもなくなった今でも、自分のために丁寧に、時には雑に、珈琲を淹れるのが大好きだ。(※5)
わたしの愛するひとは、森の中で過ごすコンテンツの中でも、リアルタイムの映像コンテンツの中でも、好んでアイスアメリカーノを飲んでいた。
(レギュラードリップを氷で冷やす、という何ともアバウトな淹れっぷりではあったけども)
嗚呼、この人は珈琲が好きなんだな、と胸が熱くなるような親近感を抱いていたら。
ある日、デカフェに切り替えたという。
え。ちょっと待って。聞いてない。なぜ。
カフェインが体に合わなくなったの?健康への配慮から?
珈琲自体は嫌いになったわけではないのでしょう?
あっ、そ、そういえばわたしも最近、夜半に珈琲飲むと眠れなくなってきちゃったから(※6)、デカフェにしようかな!!!!!
わーーーー買っちゃった。買っちゃったよ。デカフェ。
ほら見て、デカフェ!
・・・愛のさなかにいるものは、とても愚かでチョロい。
とはいえ、カフェインを捨てきれないわたしは、今日もキッチンをいい香りで満たしながら、あなたのことが大好きな自分のために、珈琲を淹れている。
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※1 経営者の名字が「小林さん」だったため「ラ・プチボア」という店名だった。いまはもうない。
※2 今思えばお洒落で贅沢な建物が多かった。食事も魅力的だったし、雨の日に洋窓から外を見ながら珈琲を飲むのが好きな少女であった。
(独特すぎる不良具合だった。ハードな性格なのに乙女趣味なのは今も変わらず。)
※3 クラシックとテレビの歌番組以外の音楽が存在することを知ったのもカフェでだった。音楽の趣味も独特だったので、学校で音楽の話ができる友達はこのころいなかった。
※4 このあと接客が入り、この文章を完成させる前に外出したので、もう過去の過去の過去になってしまった。
※5 断然ペーパードリップ派。某有名カフェのプレス方式の抽出方法、あんまり好きじゃない。
※6 緑茶生産量日本一県で育ったため、緑茶のカフェインはいくら摂っても平気。珈琲は飲みすぎると、あるとき突然限界が来て気分が悪くなる。紅茶は空腹時にストレートで飲むと倒れる。体質って不思議だ。
書き終わったら珈琲飲みたくなってきた!
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