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無知の知

今日という日は、何故か「無知の知」という、由緒ある言葉の正しさ・大事さについて考えさせられた一日だったので、ここに記録しておく。

一から説明します。世の中的にだいぶ下火になり、「真剣にやっているのは、おじさんおばさんか、海外在住か、宣伝目的ばっかり」と言われて久しいFacebook(と言いつつ、私も楽しく使ってますが)。「友達数」は数百人もいるのに、毎回「いいね」が一ケタ、ひどい時は0だったりするのに、毎日律儀に投稿している知り合い男子がいる。それこそ、社会的になんの影響力もない一般人のFBなんて、何を書こうとも、どんなに滑稽な自己顕示欲を表そうとも別に自由だけど、最近の投稿内容と言ったら、例えば、ビル・ゲイツとか、ザッカ―バーグばりの現役有名人、もっと言えば、マザー・テレサとか、リンカーン辺りの偉人レジェンドの人々の発言や思想をシェアし、そこに自分なりの見解をひとつも加えることもせずに「Agree!」とだけ書いてしまうことの恥ずかしさは、他人事ながら身悶えるばかり。

「Agree」て!…。まだそこに、「世界で最初に、とある仕組みを考えた人の素晴らしさを認める=自分には到底出来ないので、その人達が考えた仕組みの恩恵を享受している」という認識があればいいけれど、まるで飲み会で友達が放った発言に「分かる、分かる」と同じ土俵で相槌を打ってる風なのは、どうにも気恥ずかしい。そう思う分には自由だけど、それを公開してしまうっていうのは、「無知の知」の著しい欠如を自ら露呈しているとしか思えない。

しかもその男子は、大企業を辞めて起業をしたが、全く上手く行っていないらしい。「大企業の歯車になる人生なんて真っ平」「新橋で管を巻いているサラリーマンにはうんざり」「自分が上手く行っていないのは、世の中のせい」等、画面からも負のオーラが匂い立つよう。あー、この卑屈さ、きっと成功せん…。
とても苦しいのは分かるけど、何だか辛い。自分一人で世界に立ちはだかって、大企業批判をするも、それを発信している端末の製作者、それを発信している回線の所有者、それを許可している国としての仕組には全く考えが及ばないのかしらん。世の中、国家組織もあり、メガバンクや総合商社、大メーカーもあれば、ベンチャーあり、奇抜なアイデアを投じる一人の天才あり……持ちつ持たれつだと思うけど。

一方、たまたま今日、数人の会話の中で、歌舞伎の話になった。最近こそ足が遠のいているが、私は30才を越えてから歌舞伎の面白さに気づき、一頃は毎週のように、ないお金を振り絞って通っていた。歌舞伎に通い出せばすぐに気付くことだが、歌舞伎座や新橋演舞場で上演される演目というのは結構数が限られていて、要するに、昔から皆が喜んで観る演目を繰返し繰返し、時代と演者を変えて見せているのだ。スーパー歌舞伎や、コクーン歌舞伎のような新しい流れもあるけれども、古典歌舞伎の「待ってました!」と言いたいが為に観るという演目も決して廃れないわけで、新旧の流れをひっくるめて、とにかく歌舞伎は魅惑的なわけである。
それなのに、ある知り合いはこう言った。「えー、歌舞伎のどこが面白いの?全然分からない。中学の時の歌舞伎教室で『勧進帳』観たけど、全然つまらなかった。大体、歌舞伎座って、照明が暗くて天井も低くてすっごい嫌な劇場だよね」と。その知り合いは、新歌舞伎座が出来たことも、いまいちよく分かってないようだったけれど、私から言わせれば、旧歌舞伎座の、あのおどろおどろしい陰鬱さこそ他の劇場にはない素晴らしさだったわけで、「勧進帳」だけ観て、よくそんなことが言えるなと思うわけだ。
物の好き嫌いは仕方ないとして、もしも本当に、「歌舞伎座がすっごく嫌な劇場であり、歌舞伎がすっごくつまらないもの」であったら、こんなに長い間、人々の人気を集めることなど出来ないだろう、という想像力を持たないのは恐ろしい。

例えば、私は本物のオペラというものに行ったことがない。だから、単なるステレオタイプのイメージとして、「やたら長くて、古典的で退屈」と思う節もあるが、一度も本物を観たことがないのに、それを口にしないという「無知の知」だけは持っていたいと思う。
それは、音楽もアニメも同じ。私はたまたま興味がないけれど、きっとその世界は奥深いのだろうという客観性だけは持っていたい。

要するに私は、他人にとって「甲斐のある人間」でいたいと思うのだ。未知の事柄について、他人から「面白いよ」とか、「お薦めだよ」と言ってもらった時、そのことについて何も知らないくせに「あ、それ興味ない」とか「すごく、つまらなさそう」とか、無知の知の欠如をさらけ出すことはせず、これも何かの縁である、有り難きチャンス!と思い、まずそのことに接してみる人間でありたいなと思う。世の中で、一定数の人気を得ている水準のそれらのものに実際に接してみてもなお、それがつまらないと思う時は、自分にはそれを味わう度量やセンスがない、もしくは、そのステージに達していないのだ、という冷静さは持っていたいものだと、何だか今日は真面目につくづく考えたのでした。

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