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文章を「直す」という仕事

どれくらい文章を「直」せばいいのか。
編集をするようになってから、ずっと考えているけど答えは出ない。

右も左もわからない私に社長が教えてくれたちょっとしたテクニックで守っているのは、「という」はなるべく減らすことと、順接の「が」はよほどのとき以外使わないこと。

(ここでタイトルをご覧ください)(おっと)(たまにはいいのよ……)

こういう、文章をより読みやすくするための「くふう」と言えるような修正と、誤字脱字のチェックはもちろん、する。

問題はその先。

人それぞれ、文にはこだわりがあったり、その人らしさがあったりする。

編集や校閲の手が入ることで、寄るものみな傷つけてやるぜ!!とばかりに尖りまくっていた文章が、人類皆兄弟です~仲良くしましょうねぇ~ばりにまろやかになってしまったりするのは、本当はきっとよろしくない。(とはいえあんまりにあんまりなのはどうしてもアレしますけど……大人の事情で……)

忘れられない出来事がある。

ちょっと昔、私がまだ高校生だったころ。(ちょっと……?)祖母が、通っていた集まりで読む文章を手直ししてほしい、と私に頼んでくれたことがあった。皆で研修旅行をしたときの感想を発表するのだと言った。

「あんたは文がじょうずやから、おばあちゃんのへたくそなの、なんとかしてな」
大好きなおばあちゃんに頼られて、私は調子に乗った。
今も昔も、すぐ調子に乗る。
豚もおだてりゃ木に登るし、私もおだてりゃ文を直すのだ。

はりきった私は、直して、直して、直した。

原型を留めないほどに。

完成した原稿はもはや、祖母の文章とはかけ離れていた。

「できたよ!発表するならこれくらいスッキリさせなきゃ。長い感想聞かされても退屈でしょ」

受け取った祖母は、すごいねえ、ありがとねと褒めてくれた。

だけど、ちょっとだけ悲しい顔をした。

あっ、と思った。

優しい祖母の、あのときのちょっと寂しそうな顔が忘れられない。私は、おばあちゃんの一所懸命に書いたその気持ちごと、台無しにしてしまったのだと気付いた。

つたないながら、紙に手書きでびっしりと書かれていた。バスでみんなとおしゃべりしたことがいかに楽しかったか、山の上から見た景色がどれだけきれいだったか。立派な建物に圧倒されたこと、講師のお話は難しいけれどとてもためになったこと、お弁当がおいしかったこと。

そのすべてを、「無駄な文である」として、ばっさり切り捨て、理路整然とした「美しい」文章に整えることが正しさだと、イキっていた。

当時のイキり具合を思い出して胃が痛くなってきた。ものを知らないというのは恐ろしい。オエ。

結局、壇上で私の文章を読んだ祖母は、いろいろな人からお褒めの言葉をいただいたそうで、「おかげで恥かかんですんだわ~ありがとうね~」と照れながら喜んでくれた。

だけど、きっと祖母が伝えたかった想いは、伝えられなかった。
私のせいで。

こうして文章に携わる仕事をさせていただけるようになった今、あ~~~この文章直したい~~~~!!!と思ったときには、自戒をこめてあの時の祖母の顔を思い出す。

いろいろな先生がいる。
大幅に加筆修正してもいいか連絡したら、任せるよと一任してくださる先生
句点ひとつ動かしたら、お叱りの電話で1時間説教コースの先生
そもそもライターさんに丸任せの先生

ついつい自分のエゴが出そうになるけれど、あくまでもこの文章を「直す」のではなく「より良く」するのが編集であることを忘れてはいけないと、己に言い聞かせる。

似ているけれど、気の持ちようで、最終的に表面にあらわれるものはずいぶん変わってしまう。

粗探しではなくて、いいところを見つけて、そこをより伝えられる文章にするのが、良い編集なのだろうと思う。

がんばろ。

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