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コロナと自由

人間に自由意志はあるか、という哲学の議論がある。

僕はこの自由意志というものがよくわからない。

自由意志がある、あるいはないということをはっきりさせたところで、そのことにどのような意味があるのかが疑問である。

自由意志は責任の概念と結び付く。自由意志があることを前提にしないと行為の責任を問うことができない。自由意志が社会の維持に必要とされる理屈はわかる。しかしだからといって、自由意志が本来的に存在することにはならない。あくまで僕たちが自由意志を想定した社会システムの中で生きているだけのことだ。

自由意志が全く存在しないと考えることも可能だ。サルトルが「嘔吐」で描いた「実存」の光景は、人間の認識の基礎となる存在や変化といった枠組みを無化する、偶然性に満ちた世界である。ここには自由意志が入り込む余地はない。これが僕たちの生きる世界の実相であるともいえる。しかしそもそもそのような非人間的な世界に立って自由意志を考えることは無意味だろう。自由意志は人間の世界で成り立つものだ。

行動の選択において、僕たちが自由であるか不自由であるかと問われたら、恐らく多くの人が日常的な感覚として、ある程度自由で、ある程度不自由である、と答えるのではないか。自分ではどうすることもできない状況もあるが、限られた条件の中でいくばくかの自由を発揮している。自由を考える上では、そういう日常的な感覚に根ざすべきだという気がする。

結局、僕たちは自由と不自由の間にいるとしかいえないのではないか。

普段は自由についてほとんど考えることがないのだが、偶々読んでいた「哲学入門」(外田山和久)という本に自由について語った文章があり、読みながら、今渦中にあるコロナ騒動のことを連想した。

今日、緊急事態宣言が出された。コロナを巡って状況が日々変化する中で、僕は言葉にできないもやもやした気分を抱えている。それを、自由という言葉を手掛かりに、書いてみたいと思った。

世間に不安が拡がり、その影響を自分も受けているのを自覚する。家にいると何となく鬱々とした気分になり、読書をしても集中できず、作業も手に付かない。自分は一体、何を不安に思っているのか。

コロナウイルスに自分が感染し死ぬかもしれないということを、僕はそれほど恐れてはいない。変な言い方になるが、この不安は、コロナそれ自体とは無関係なのではないかとさえ思う。

このコロナ騒動については、感染者と死者の増加、経済活動の停止といった現実的に起きている現象とは別に、人々の意識に起きていることに注目する必要がある。

普段僕たちは現実と意識をほとんど区別しない。それは、意識化されている世界がすなわち現実だからだ。しかしこれによって忘れ去られるのは、意識が現実を作る、ということである。

僕がこのコロナ騒動を見ていて強く感じたのはまさにことことだ。ウイルスの動きとは別に、人々の意識が、現実を作り出しているということ。

情報空間を媒介に拡大する意識というもう一つのウイルス。コロナウイルスと、意識のウイルスとの相似形には深い繋がりがあるように思えてならない。

社会の情報化とともに進行したのは、意識の実体化・全面化ともいえる現象だ。情報空間に接続する時間が増え、それまで以上に意識化された世界に人々は暮らすようになった。情報空間においては、意識と現実の区別はない。意識の「外」はなく、意識化されたものがそのまま存在となるような世界。そこでは観念としてのコロナウイルスが、実体となる。コロナウイルス「について」考えるという距離が生まれず、コロナはただただ怖い存在として目の前にある。

コロナを意識の外に追いやることができず、コロナを見続けてしまうということが今起きている。日々更新される情報を見て不安になることは、ますますコロナを実体化させ、不安を伝染させる。不安な意識は不安な現実を作り出す。

コロナに精神を持っていかれること。これは、自由を奪われている状態ではないか。普段僕は自由について考えることはなかったが、コロナを常に意識化してしまう今の自分の状態に目を向けた時、自由ではない、とはこういうことかと思った。

多くの人が、物理的な制限とは別に、精神的な自由を奪われているとは認識していないように思える。不安に突き動かされているがための過度な情報収集や他人への非難といった行動は、自由意志の結果といえるだろうか。

自由とは、素朴に定義するなら「自分らしくあること」だと思う。

果たして今、自分らしくあることができているだろうか。

意識が作り出す世界から少し距離を取ることを、心掛けている。

コロナによって世界は変わった。確かにそうかもしれないが、変わっていない世界も同じだけあるはずなのだ。





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