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哲学や文学の「深さ」—カミュ「ペスト」を読んで

先日、アルベール・カミュの小説「ペスト」の読書会に参加してきた。

最後の方で参加者の一人が、こういう質問をしたのが印象に残った。

「このような難しい本を読む理由は何ですか」

「ペスト」のような、簡単には読めず、ある意味苦しささえ伴うような読書をするのはなぜか、ということだろう。同じ読書でも、楽しめる本は他にたくさんある。

確かに、ペストを読み進めるのは大変だった。内容を充分に咀嚼できた自信はなく、それなりにストレスを感じる読書だった。

自分はなぜ「ペスト」を読むのか、と改めて考えてみると、それは不思議なことのような気がした。

「ペスト」に限らず、頭(あるいは心)に負荷をかけるような読書を僕はよくしている。そしてきっとそのことを楽しんでいる。

だから最もシンプルな答えは、「楽しいから」ということになるが、しかし、楽しい、という言葉だけでは不充分だとも思う。

読書会でその質問について考えていた時、浮かんだ言葉は「深さ」だった。僕は哲学や文学など、難しい本を読む時、「深さ」を求めているのだと思う。

しかし読書会では、それ以上に考えを進めることはできず、質問には答えなかった。この「深さ」とは何だろう。

「ペスト」を読みながら僕は、カミュという人間の「真面目さ」に圧倒された。その真面目さは、人が生きていく上で必要とする範囲から過剰なくらい逸脱しているように思えた。人は思考するが、それはあくまで本人の必要の範囲において思考しているに過ぎない。自分を含めほとんどの人はそうだと再認識させられ、必要の範囲を全く意に介さず突き抜けていくカミュの思考は、不気味にさえ思った。

僕は「ペスト」を読むことにかなり疲労した。カミュの真面目さを受け入れるだけの容量の不足を実感し、それは一種の拒否反応となった。だから「ペスト」を読んだことは僕にとって、必ずしも楽しい読書とはいえず、やはりどこか苦痛を伴った。

しかしその苦痛も含めた、必要を超えた真面目さが、この小説の「深さ」であり、僕はやはりその「深さ」を求めて読んでいる。

「ペスト」では、個人の幸福を超えて為される善があるとすれば、それはどのように実現されるのか、ということが問われている。少なくとも僕はそう読んだ。

主人公の医師リウーは、無神論者であり、善の根拠を神に求めることを拒絶する。さらに、善行がヒロイズムによって為されることもよしとしない。だからリウーは、パヌルー神父に「あなたもまた人類の救済のために働いていられるのです」といわれた時、それを否定する。


「人類の救済なんて、大袈裟すぎる言葉ですよ、僕には。僕はそんな大それたことは考えていません。人間の健康ということが、僕の関心の対象なんです。まず第一に健康です」。


リウーは善というものを観念的に考えることをしない。そもそもリウーは善という言葉自体使わないのだが。リウーは自分の行為(自己の幸福を犠牲にし、ペストと闘うこと)の理由を、「それが職務だから」というに留める。


「(略)しかし、それにしてもこれだけはぜひいっておきたいんですがね—今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと闘う唯一の方法は、誠実さということです」
「どういうことです、誠実さっていうのは?」と、急に真剣な顔つきになって、ランベールはいった。
「一般にはどういうことか知りませんがね。しかし、僕の場合には、つまり自分の職務を果すことだと心得ています」


確かにリウーは思想を語らない人間として描かれ、思想を語るパヌルー神父と対比される。パヌルーは思想を個人の幸福よりも上位のものとするが、リウーはそうではない。個人の幸福の価値を決して貶めることはない。それでいながら行動においては、個人の幸福を超える善を為そうとする。善についての思想を持たずに善を為すことは可能か。リウーの親友となるタルーの言葉でいうなら、「人は神によらずして聖者になりうるか」。この問いに、僕は、思想において一切の甘さを許さないカミュの真面目さを見る。

多くの人は思想を語ることで満足する。あるいは思想に基づいて善を為す人がいて、その善を評価する人がいる。善を為したこと、評価したことは到達点であり、人はそれ以上に考えることをしない。しかし「ペスト」の問いは、そのようにして為される善は果たして本当に善なのか、ということである。そのような思想における善の裏には必ず悪が存在し、思想の無意識下で悪の排除が行われている。思想における善は不条理な悪 = ペストと表裏一体ではないか。タルーのいうように、ペストは単なる感染症ではなく、人間社会に蔓延する不条理な悪の比喩であり、人は知らず知らずにペスト患者となりペストを拡大させている。


時がたつにつれて、僕は単純にそう気がついたのだが、他の連中よりりっぱな人々でさえ、今日では人を殺したり、あるいは殺させておいたりしないではいられないし、それというのが、そいつは彼らの生きている論理のなかに含まれていることだからで、われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身振り一つもなしえないのだ。まったく、僕は恥ずかしく思い続けていたし、僕ははっきりそれを知った—われわれはみんなペストの中にいるのだ、と。


リウーは思想を否定する。しかし僕は、リウーは思想を否定しつつ、ぎりぎりのところで思想を持っていると考える。一方で、思想を持たない善の行為者として、グランという人物が設定されており、彼は物語中で理想化され特別な位置を与えられている。そのようないわば自然な善の行為者としてのグランと比べた時、リウーの思想の輪郭が見えてくる。リウーが自分の行為の根拠とする「職務」とは、彼の覚悟のことであり、自分に課した命令である。彼はその命令に、自分の幸福を犠牲にして従う(僕はリウーの善の根拠が思想的なものではなく一種の非意志的な命令だ、と気付いた時、カントが道徳を無条件の命令として考えていたことを思い出した)。

リウーの覚悟は、新聞記者ランベールにいった以下の言葉に端的に表現されていると思う。


リウーは、(略)これは自分の暮している世界にうんざりしながら、しかもなお人間同士に愛着をもち、そして自分に関する限り不正と譲歩をこばむ決意をした人間の言葉である、といった。


リウーは世界を愛するのではなく目の前の人間を愛すると覚悟を決めた人である。パヌルー神父は、神を愛するがために、そしてその思想を徹底したために、ペストによる不条理な死をも神の望むものとしてそのまま受け入れるが、リウーは世界よりも、まず目の前の人間を愛そうとする。


「僕は愛というものをもっと違ったふうに考えています。そうして、子供たちが責めさいなまれるように作られたこんな世界を愛することなどは、死んでも肯んじません」。


リウーは世界を語らず、思想を持たない。リウーが持つのはただ人間への愛である。しかし、人間への愛を自然に、つまり思想なく実現するのは難しい。なぜならそれはしばしば個人の幸福と対立するからだ。だからこそ人間への愛は自然としては実現されず命令の形を必要とする。リウーの持つ思想とはそういうものだ。


僕は「ペスト」は、徹底した思想小説だと思う。

善に至るために用意された思想の近道を注意深く避けながら、不可能と思える前進を続ける。思想の否定によって、逆説的に一つの思想を表現する。

その真面目さの濃度に消化不良を起こしつつも、それによってのみ満たされる器官があることを知る。

必要の範囲を超えて為される本質の追求。

哲学や文学の「深さ」はそこにあるのではないか。





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