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幸福の徴と黄色いクチバシ 2022年3月27日週次投稿

書くのが面倒なときのつっかえ棒、週次投稿でございます。
今週は桜が咲くと思い出すこと、印象に残った日常の場面とその後に気づいたこと、書いていくうちに思いついたことを。

いつも週末にひとつは記事を投稿するようにしていますが、何となく気乗りせず書かず終いということに。
そんなに重いことに捉えていないつもりではあったものの、書いてみようと思っていたことをなおざりにした引っ掛かりが何となく感じられて、趣味や習慣との付き合いにも面倒なところがあると、これまでに何度となく思い付いたことがあったような事を考えるともなく。



桜が咲くと思い出すのが、大島弓子『グーグーだって猫である』1巻で、大島弓子は毎日お通じがあるだけで幸福感があるんだと、桜の花が花びらではなく、花弁とガクを含んだ根本の部分から丸ごと落ちてくる中で、それをグーグーとの出会いも一緒に幸福の徴として感じる場面。(うろ覚えなので少し内容が違うかもです。)

はじめて読んだときに、あっ、と思った。
とりわけ鳥を見るのが好きな方はよく知っているかもしれない、その丸ごと落ちてくるのは大抵その緑の根本の部分を、よく見る街の鳥だとスズメやヒヨドリが噛みちぎる。噛みちぎられた丸ごとが盛りの桜の他の花にひっかかって、風が吹いたときか重さの都合か何かの拍子にそこから滑り落ちる。

満開の桜のスズメは一心不乱に花の根本に噛み付く、次の根本に噛み付く。
近くの灌木の茂みからヂウヂウと重なりあった音がして、隙間から覗き込むと黄色いクチバシがいくつも並んでいる。
自分の存在を何とか外に知らせようと色と音を混ぜ合わせる。
丸ごとがまた何かの拍子に滑り落ちてくる。

桜の近くでそれを見つけると、今年もやってるね、とつぶやいて、大島弓子の幸福の徴と、灌木の中の黄色を思い出す。



散歩の帰り道に国道の交差点の信号待ちで、視界の端に人が写真をとっているのに気づく。
チャイルドシート付きの自転車に乗っている多分私と同じくらいの年齢の女性が、電柱に貼ってある迷子鳥の張り紙を携帯におさめていた。

そうか、と思いつく。
自分は偶に電柱にもその貼り紙があるのに気づいていたけど、気の毒だと思うだけで携帯におさめておくことは考えたことがなかった。
もし鮮やかな、街で見かけることがない鳥を見かけたとき、それが誰かのところにいた鳥であることは思いつくとしても、すぐに場所を知らせることはできない。

自分も鳥好きの端くれ、と次の日に貼り紙の写真をとる。
ふたつあって、ひとつは2021年の12月、もうひとつは2018年の1月のものだった。

貼り紙にはいくつかの情報が書かれている。
写真はもちろん、種類のこと、大きさのこと、特徴や好きなモノゴトが書いてある。
なるほどキミはお米が好きだったのか。
こっちのキミはチラシをかじるのが好きだったんだね。
一番下には連絡先の電話番号とTwitterのアカウント名。

家に帰って、2018年の貼り紙に書いてあったTwitterのアカウントを少し重たい気持ちで確認してみた。
他の迷子鳥や動物の情報、他の方が飼っていて一緒に過ごしている鳥のかわいい様子が継続的にリツイートされている。

そのリツイートの中に、ある鳥が亡くなったこと、その鳥は何処かから飛んできたのを保護した鳥であったこと、その鳥と過ごした大切な何年もの時間があったこと、元の飼っていた方に悪気はなかったということが書いてあるのを見つけた。

自転車に乗って貼り紙の写真をとっていた方も同じツイートを読んだかもしれないと、今これを書いていて気づいた。



春と修羅から引用させてもらってお終い。

雲の信号

あゝいゝな せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし 
山はぼんやり
岩頸だって岩鐘だって
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
   そのとき雲の信号は
   もう青白い春の
   禁慾のそら高く掲げられてゐた
山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる
(一九二二、五、一〇)

どんな場面で生きていくだろうか。わからないけど重ね描きをする。客観的な場面と。
これが驕りなのかもわからない。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。