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嫌なことから逃げてはいけないのか

嫌なことから逃げていると、簡単に言えば根性のない人間で、いわゆるダメ人間の部類に入る。

ストレス耐性がないという言い方ができるのかもしれないが、一般的なサラリーマンの仕事が出来ないからといって、なんだか使い道がない人間のような言われようではある。

世の中の仕事というのはたくさんある。家を建てる時のような土木工事などの仕事は体力があれば出来るのかもしれないが、続けられる人はごく一部で、土木仕事に関して言えば日本人の多くの人が根性の無い部類の人間に入ると思う。

昔の自分はなんかそういうことを気にする人間だった。これを達成できないと立派な人間になれないんじゃないか。とかそんなことを気にして生きていた。

だがある日、とある事をきっかけにその考えを見直すこととなった。

簡潔に言えば、父親が死んで私の考え方は変わった。

私の父親は、絵に書いたようなクソ真面目な性格で、授業には毎回出席して宿題を提出するのに、要領が悪くテストではまぁまぁの点しか取れないタイプの人間である。

実際にはそれなりの大学を出ているわけだが、いわゆる天才肌とは程遠い実直で誠実でズルをして儲けたりすることを嫌うタイプの人間である。

酒も飲めないので、上司をヨイショして上にのし上がるタイプでも無く全く出世できずに与えられた仕事を文句も言わずこなしていた。

家でも優しいというよりは、厳格というタイプで、テレビを見てたら「宿題終わったんか?」と言い、食事中には「箸の持ち方おかしいぞ。」とかそんなテンプレの文言ばかりいう父親だった。

休みの日にはぐったりして寝ているか、仕事とは関係ないドイツ語などを勉強していた。

そして長らく働いていたまぁまぁの大企業をクビになり、新聞の折込広告かなにかで見つけた求人に申し込んで、50くらいのまぁまぁオッサンの年齢だったのにも関わらず、基礎学力試験が高得点で入社することができた。それに通るまでは、夜勤の冷凍食品の工場と非常勤講師のバイトを掛け持ちしていた。

その新しく入った会社の単身赴任先で1年か2年目くらいで脳梗塞で死ぬわけだが、子供の自分としたら変な感覚だった。

まず思ったのは、人間っていきなり死ぬんだな。と思ったのを覚えている。

それまでの私は人が死ぬ時というのは、殺人事件や事故じゃない限り、病院で意識朦朧の中、家族がベッドの周りに集まって、心電図が「ピコン、ピコン、ピコン、ピー・・・」で死ぬものだと思っていた。

だが、実際は私が部活から帰ってきたら、母親がおらず

「お母さん出掛けてんの?」と婆ちゃんに聞くと、「こっちにきなさい」と深刻な表情で呼ばれた。いつも優しい婆ちゃんの様子がおかしいので、何かあったのだと悟った。

「あのな、お父さんキトクしたんや。」と言われた。

「キトク?、、なにキトクって?」と聞き返すと、婆ちゃんは心苦しそうにうつむいて言葉を選びに迷っていた。

この時のことは、今も鮮明に覚えているが、世界で一番残酷なことを婆ちゃんに聞いたと思っている。

さすがにアホな高校生であった自分でも、人がキトクしたと言えば、危篤だと理解できた。

「お父さん、危篤したんや。」この危篤が真っ先に脳裏に浮かんだ。むしろコレ以外思い浮かばなかった。だが、自分で消去した。そんなわけない。父親が死ぬわけないと思っていたので、自分が知らない「キトク」という言葉があるんだと脳内で変換した。

そして婆ちゃんに「キトクって何?」と質問した。

その後、婆ちゃんは「キトクって・・・だから、、お父さん倒れたんや。」と言い換えた。

「えぇ?大丈夫なん?」

「いま、お母さんがお父さんのところ行ったんや。」

まだ何か言いたそうな婆ちゃんを見て違和感を感じた自分は

「そうか、、ちょっと、風呂入ってくるわ。」

そう言って風呂に入った。

何も考えないで、いつものように風呂に入ろうとしたが、湯船に浸かると「婆ちゃんキトクって言ったよな。キトクって危篤か?」と身体が冷たくなった。心臓はバクバクしていた。

冬なのに追い焚き無しでずっと浸かっていて、完全に湯気が無くなっても湯船に浸かっていた。きっとこの記憶は一生残るだろうなと当時の自分は思った。案の定いまも残っている。

風呂から出たら、事実を受け入れないといけないので、婆ちゃんに確認しなければならなかった。同時に婆ちゃんもちゃんと伝えなければと考え直していた。

また婆ちゃんに呼ばれると「あのな、お父さんな、亡くなったんや。」とはっきり言われた。

その時の自分の中で1%の可能性が消えて夢から現実という表現よりは、むしろ夢に入ったんじゃないかと思うくらい頭がボーッとしていた。

「しゃんとしいや。」と婆ちゃんに言われたが、それからの記憶はあまり憶えていない。だが、泣かなかったのは憶えている。結局葬式でも泣かなかった。

葬式で父親の兄貴と弟のおじさん達が、「声かけたら起きそうやのになぁ。寝てるんちゃうか。」と遺体を焼く前に親父の名前を最後まで呼んでいたのが自分も泣きそうだった。

そこから、なんで父親が死んだのか考えるようになった。この世には強盗も居るし、犯罪者じゃなくてもクズもいる。

父親のように誠実で真っ当な努力家がこんな死に方をする理由が理解できなかった。順番がおかしいと思った。

だが、次第にテレビのニュース等で色々な人の死を考えることで、父親は人生をやり切ったから死んだんだと捉えるようになった。子供が若いながらも、父親の教えを受け継いで父親がいなくなっても生きていけるものだと認められて、死は残された人に何かを託す行為だと理解できるようになった。

死は罰ではないし、誰にでも絶対に訪れるものである。無差別殺人で殺される人もいれば、事故で死ぬ人もいる。父親はそういう意味では健康上の理由で死んで、自分の人生を全うしたと言えそうな死に方ではある。

壮大な前フリをしたが、以上が嫌なことから逃げていい理由だと思う。要するに、そんな悔やみきれない死に方をする人が世の中にたくさんいるのに(正確にはこの世にはいないが)、やりたくもない事をダラダラ文句言いながら人生の時間を費やすのは、その人達にとってすごい失礼なんじゃないか。と思うようになった。

もし自分が今ガンだとしたら、君膵のように死ぬまでにやりたいことリストを作って実行すると思う。誰しも今の自分がガンになる可能性があるのだとしたら、その生き方を実行すべきではないだろうか。

私は父親の人格を尊敬していた。それと同時に父親のようにはなりたくないと思った。自分の人生を犠牲にして、やりたくもない仕事を子供のために朝から晩まで働かないで欲しいと思った。カネを稼いで済むことなら、当時の自分でも知恵を絞れば何かしら出来たんじゃないかとも思ったりした。

それは父親のような人にもっと自分の楽しめる人生を生きて欲しいという願いでもあるし、父親のように社会に取り込まれて食い物にされたくないとも思った。

もちろん父親がクソ真面目に働いてくれたおかげで、遺族年金はしっかり入ってきた。裕福な家庭ではなかったが、貧乏でどうしようもないという状況にもならなかった。

だが、その後の遺品整理でクレジットカードの処理とか保険会社の処理とか父親の死亡手続きなどが諸々大変で、将来の不安も合わさり母親も疲れ果てて、それで死ぬんじゃないかと思ったほど大変に見えた。死の周りにいる人は大変な思いをすることも知った。だから簡単に死んではいけない。

当時、高校生で成績が悪かったが、この悔しさをバネにして、勉強して医学部でも入ってやろうとか、東大行ってやろうとか考えたが、ベタだなと思って停滞した成績のまま特に起爆剤になることはなかった。

誇らしい息子になりたかったものだが、現在も相変わらずという感じではある。

父親は「勉強せい」と1日100回くらい言っていたが、「嫌やったら勉強せんと、好きなことしたらええんやぞ。」とも言っていた。

自分は小さい頃から「どっちだよ。」と引っかかっていたが、父親自身もこの呪縛のようなものから抜け出したかったのかもしれない。

嫌なことを仕事にしたくないなら「勉強する」か「好きなことをする」しかない。そうじゃなければ、人から言われたことをやるしかない。

好きなことが出来ない状況の人が世の中にたくさんいるのに、なんだかんだ面倒臭がって、言い訳をして、後回しにして、好きなことに挑戦しないのは失礼な気がする。

年齢を言い訳にしたり、時間がないとか、カネがないとか、スキルがないとか、そんなことを考えるのは辞めた。

別に人からバカにされようが、父親のような堅い意志で、父親が出来なかったであろう人生の方向性で歩んでみようと思った。ちなみに兄貴は教師で残業100時間なんかザラで死ぬほど働いている。私も兄も父親がクビになってからの働きぶりが凄かったと尊敬している。もちろん私は兄も尊敬している。

でも、健康を害したり、死ぬくらいだったら逃げて良いと思う。そこまでして働かなければいけないものではない。兄も別に嫌で働いているわけではない。教師という仕事が好きで働いている。

完成した形は違えど、同じ意志を継いでいる。

随分前のことなので、たまに忘れそうになるが、こうして文字にするとまた当時のことが甦ってモチベーションに繋がる気がする。

ベタなことを言えば、父親に見守られながら、父親が出来なかったことを実現して、成功させてあげたいような感覚がある。


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