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世界はほしいモノにあふれてる

この番組が私は好きなのだが、残念ながら三浦春馬さんが亡くなってしまったので、代わりに鈴木亮平さんが後を継いで改めて始動した。

個人的には番組自体が潰れなくてよかったし、鈴木亮平さんが新しく就任する時に『三浦さんの意志を引き継いで頑張りたい』との話もあり、三浦さんが居なかったように、うやむやに誤魔化すのではなく、しっかりそのような話をしてくれて凄く良かった。

私と同い年の俳優が私の誕生日にニュースで報じられたような人生をやり遂げたのは、何とも言えない感覚にはなるが、だいたい同じ人生の時間を過ごしてきて、自分は何の役にも立たない人間だなと不意に思ったりする。

とりあえず、番組のことを話したいのだが、前にも言った通り、私は伝統工芸であったり職人であったり、非効率的な方法で生み出される製品が好きだ。

世界はほしいモノであふれてるに関しては、通常回は世界中のいろいろな目新しいものを特集しているが、この時期は国内の伝統工芸を特集していたりして、先週は着物を特集していた。

近年では、日本の伝統工芸の跡継ぎに海外から来た人が引き継いでいたりするのも、目新しさはなくなった。

正直、伝統工芸だからといって引き継がなければいけないモノではないし、廃れるというのは、需要がなかったり、売り方の知恵が無かったということなので、厳しい言い方だが製品とライフスタイルの変化が合わなかったのだと思う。

オシャレでもない自分がなぜこんな伝統工芸に興味があるのかわからないが、多分単純に自分で手作りすることが好きなことと、それを極め尽くした人達を尊敬しているんだと思う。

京都の着物でも岡山の国産ジーンズも、もちろん好きなのだが、どういう想いで作った製品なのか、作り手の想いが伝わると嬉しいというのもあるし、自分もそれを感じたいというのもある。

もちろん大量生産はそれはそれでいいし、品質も良いのだが、手作りが好きな人もいるし、機械や大企業が作るほうがコスパ良くて安心という人もいる。

それだけの違いだと思う。

少し違うかもしれないが、何かレストランで食いたいというときに、チェーン店か個人経営か、という違いに近いかもしれない。

世の中で能力がある人というのは、ものすごいお金を稼げる人だったり、権力を握る人なのかもしれないが、私としては自分で何でも作ってしまう人が能力があるんじゃないかと勝手に考えている。

子供の頃からずっと考えていたが、カネを稼ぐことが生きる事だと勘違いして生きていたら、きっと何の能力もない人間になるんじゃないかと思いながら生きてきた。

事実として、何の能力もない人間が出来上がったわけだから、おそらく子供の頃の私の考えは正しかったと思う。

何か自分で作れたり、衣食住に関わるようなものを自分で磨き上げられる人に対する憧れが強かったのかもしれない。

いわゆる自給自足やDIYの類かもしれないが、自分たちの身の回りのものがどうやって出来ているのかも知らずに、平然とカネを使って買っているのである。

服も何気なく着ているけど、私は糸をどうやって作るか知らないし、ポリエステルやナイロンなどの糸がどうやって生地になるのか知らない。

生地から服も作れないし、服が破れても修理できない。

小学校のころに勉強していた机の表面がなんでこんなツルツルなのかわからないし、水平にバランス良く自立している仕組みもわからなかった。

コンビニ弁当の原材料名を見ても、何を自分が食べているのか全て説明できる人はいないだろう。

大人になったら理解できるんだろうかと、小さい頃に若干の不安と違和感を感じていた。

いまこの記事を書いているパソコンにしても、なぜ自分の打った文字が画面に浮かび上がるのか知らないし、【公開】を押したらなぜ世界中の人が見れるようになるのか仕組みもわからない。

人間がこれまで積み上げてきた知識をカネで買っているだけでは、もし仮に金持ちになったとしても、モノに溢れただけの何の価値もわからない勘違いした人間になるんじゃないのか。という認識があった。

大人になって胸を張って立派な人間と言える自信がなかった。

学校に行っていれば、そんなことを洗いざらい教えてくれるのかなという期待もあったが、もちろん中学では勉強しないし、高校でも大学でさえも全く勉強しなかった。

原始的なところからの基礎から辿るよりは、現代の生活から未来へ向けた上乗せする部分を多少学んだくらいで、今の自分達の生活がどのような原理で成り立っているのか全く学んでこない人生だった。

道路が陥没したり、建物が倒壊するニュースを見れば、ワイドショーのコメンテーターは好き勝手に、ちゃんと検査はやったのか?とか、不備はなかったのか。などと言うが、テレビでコメントしているほとんどは、建物や道路がどのように建っているのか知らない。

普段から自分たちが身近に使っているもののほとんどを、私達はどうやって出来ているか何も知らない。

単純に考えて、そんな人が増えている現代で日本の技術力が向上していくわけがない。

いろいろ生きていく上で考え方はあるだろうが、カネだけ払って人任せにしている感覚が普通でいいのか、ずっと疑問があった。

人は一人では生きられないのだが、やはり身の回りについて基本的な知識がある人を自分は尊敬しているんだと思う。

普通に会社員として働いて、毎月給料をもらって生きているのも良いと思うが、そうすると単純に身の回りに気を使ったり、興味を持ったりする時間がかなり減ると思う。

少なくとも私が会社員として働いていたら、日々の仕事のことしか考えられなくなると思うし、それ以外は優先順位が低いものとなる。

自分たちの世界にはほしいモノで溢れているのである。

欲しいものであっても、そのモノについてあまり深く知らない人が多い。

製作側からしたら、とりあえず感覚で気に入ってもらえたら良いよ。と言うんだろうが、やはり何かわからないものを評判で買うのが当たり前の昨今は、その製品についての本質を詳しく知らない。

現代社会はすごい変化が激しい。人の欲しい物もすぐにコロコロ変わってしまう。

あれだけ好きだったのに、買ったらゴミ同然のような扱いをする人もいるし、必要ないのに2つも3つも買う人もいる。

人に欲しいように働きかけるマーケティングの影響もかなりあるだろうが、私は自分で欲しいと思ったものを、気に入ってじっくり使っていきたい。

投資をやっている以上、地球上のいろいろな流行り物をチェックしないといけないが、それら全てを自分が体験するわけではないし、ファッションも好きでずっと着てる服が時代遅れになってから一周回ってレトロファッションでもう一回ブームが来るくらい同じのをずっと着ている。

誰にでもあるだろうが、安いとか高いとか流行りなど関係なく、ずっと使っていると、モノに愛着が湧いてくる。

手作りの製品というのは、一般的に大量生産よりは長く使えるように作り手が計算して作っているだろうし、実際使い心地も良いので長く使いやすいというのもある。

大量生産の低価格の類似品があるならそれでいいのに、わざわざ高いモノを買う必要があるのか。という考えもある。

良いものが売れる時代であれば、もちろんそれでいいと思うが、そう簡単なものでもない。

積み上げてきた努力や技術が後継者不足や需要減で無くなってしまうのは勿体ないと思う。

この世に同じ人間がいないように、同じ人生を歩んできた人もいない。

モノ作りに打ち込んできた人というのは、そのモノにその人の人生や考え方が全て乗っている気がする。

昔の技術をずっと引き継いでいると、今の技術より遅れていると勘違いする人がいるが、そんなことはない。

数学であっても、基礎となっているのは紀元前に誰かが発見した定義や理論であるし、昔からの技術の代わりに効率的に変化しても、その技術自体は重要な価値がある。

モノが人の生活を豊かにしたならば、ものづくりの技術の基礎は、生活を豊かにする技術の基礎とも言える。



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