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或ル医者ノ回想

 10月5日、深夜3時30分。一人の患者を看取った。若い女性の患者だった。
 若くして不治の病に侵された彼女は、命を刈り取られまいと懸命に戦ったが、病魔は手をつけられないスピードで彼女の身体を蝕んでいった。徐々に消耗していき、精魂尽き果てた彼女は最後の2日間は昏睡状態に陥り、そこから目を覚ますことなくそのまま息を引き取った。
 午前2時ごろに病棟から連絡を受け、看取りに伺った。この病院は取り決めとして、看取りを含め、夜間の対応は原則当直医でやることになっている。幸か不幸か、今日は自分が当直だった。入院主治医ではなかったが、それまでずっと診てきた患者なので、できれば自分が看取りたいと思っていた。病室の引き戸からは木漏れ日の様な、優しいオレンジ色の照明が漏れていた。彼女の陽だまりのような性格を思い出し、目尻が思わず熱くなる。
 「先生、よろしくお願いします。」横にいるベテラン看護師が嗜めるように声をかけた。ふと我に帰る。いけないいけない。1人の患者が死んだだけだろう。いつも通りに、淡々と死亡宣告すればいいんだ。そう自分に言い聞かせてから、病室の扉をノックした。
 病室に入るなり、母親のすすり泣く声が耳に入った。大事に育てた一人娘だったという。父親は目を瞑って、じっと一点、足元を見つめていた。モニターの心電図はとっくに一本の線となり、耳障りな一本調子の電子音が、病室内に響いていた。少しこみ上げるものがあったが、ひと呼吸置いて、感情をいなした。
 「失礼いたします。当直医の榊原です。診察に伺いました。」
 とりあえず、普段通り、定型的な挨拶から入る。母親が、「榊原」に反応して、こちらを見た。「先生…」とひと言だけかけてきたが、その後に言葉は続かなかった。こういう時、かける言葉を持ち合わせていない。無言で頭を下げ、ベッドサイドに横たわる患者のもとへ赴いた。
 彼女は、あれだけの辛い闘病生活にもかかわらず、どこか穏やかな顔をしていた。入院時と比べて幾分ほおは痩せこけていたが、元気な頃の面影は残っていた。顔色は生気を失った様な土色をしていたが、オレンジ色の照明が頬にほのかに紅を差して、あたかも生きている様に見えた。いままで見たことがないほど、とても綺麗な死に顔だった。
 機械的に、淡々と、死の3徴を確認する。あたかも生きている患者様に接するように「目に光入りますよ」と声をかけつつ、瞼を上げて、無感情にペンライトで目に光を入れる。続けて、ペンライトを聴診器に持ち替えて、胸部聴診を行う。肌にはまだ温もりが残っていた。
 死亡時刻宣告のため、看護師さんから予めもらっていた懐中時計を取り出そうと白衣のポケットの中を探そうとしたが、ふと彼女の約束を思い出し、手を止めた。
 「先生、あたしが死んだら、この時計で看取ってくださいね」
 生前、彼女は、G-Shockのペアウォッチを見せながら、そんなことを言っていた。その時は冗談やめてくださいよ、なんて言っていたけど、まさか本当になるなんて。不意に視界が滲んだが、涙はすぐに引っ込めた。
 ポケットから手を出して、彼女の左手首を見る。彼女は、まだ腕時計をつけていた。「大切な人から貰った時計だから、死んでも外さないから」なんて言って、意地でも外さなかったらしい。
 「心音停止、呼吸音停止、瞳孔の散大を確認いたしました。」
 だらりと下がった彼女の腕を手に取り、腕時計の時間を確認する。2時18分。自分の腕時計の時刻から3分進んでいるが、この際どうでもいいだろう。
 「10月5日午前2時18分、ご臨終です」
 無感情に死亡宣告を告げた後、母親が、両手で顔を覆い、堰を切った様に泣き始めた。父親も呻くような声をあげて、肩を震わせていた。二人とも、しばらくは言葉が出てこないほど、憔悴しきっていた。泣き声と、モニターの電子音だけが、虚しく病室内にこだましていた。

 「お看取りお疲れ様でした。あとはコレ書いてくださいね。」看護師は、死亡診断書を手渡してきた。まるで予定されていた様に、予め彼女の生年月日、病名など、必要事項が詳細に記載されていた。
 「しっかし先生も大変よねえ。奥さんあんなことになっちゃったのに当直に駆り出されるなんて。」
「いくら人手不足とはいえ、死に目にも付き添えないなんてねえ。ここの病院はどうかしているよ。」看護師たちはナースステーションの奥で、こちらに聞こえるか聞こえないかの声量で、ひそひそと井戸端会議を行っていた。
 俺は、死亡診断書に書いてある名前と、直接死因の欄をじっと睨みつけた。

死亡した人の名前:榊原真紀子
生年月日:平成5年9月5日
年齢:28歳
直接死因:子宮頸癌

 榊原真紀子、俺の妻の名前だ。もともと、ここの病院で、看護師をしていた。いるだけでその場がぱぁっと明るくなる様な、元気で、明るくて、快活な、看護師だった。程なくして俺たちは付き合い、半年ほどで婚約した。籍を入れる前、「指輪なんかより時計が欲しい」とか言うから、G-shockのペアウォッチを買ってあげた。
 結婚して間もないころ、1年半前に突然不正性器出血が出現した。俺はすぐに病院に行く様に勧めたが、彼女の両親が、新興感染症の流行を盾に病院へ連れて行くことを反対した。そうこうしているうちに明らかにやつれてきたので、第4波が収束した時に彼女の両親を説得して病院に連れて行った。検査の結果は、すでに全身に転移していた。とうに手遅れで、そのまま緩和ケア病棟に入院、そこから一度も帰ってこられなかった。

 死亡時刻を記載したあと、死亡年月を記載するため、カレンダーを確認する。10月5日。その2日前は、10月3日。無意識の内に死亡診断書に10月3日と書いてしまった。5日に直そうとした時、不意に真紀子の言葉が蘇ってきた。
 死の2日前、10月3日、真紀子はこんな言葉を残し、その後、程なくして深い眠りに落ちていった。
「時計買ってくれてありがとう。一緒にいてくれてありがとう。私と出会ってくれてありがとう。私は大丈夫だから、心配しないで。生まれ変わっても、私と出会ってね。」
 頬を一筋の涙が伝い、死亡診断書の、彼女の名前の上に一滴落ちた。「榊原」の文字が滲んで読めなくなったが、どうでもよかった。それから小1時間くらい病棟のデスクに突っ伏していた気がする。その間ずっと涙は止まらなかった。

#2000字のドラマ
#短編小説
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