大学院で神経科学を学んだ私が文学部に出願するまで
大学・大学院の7年間で神経科学を専攻し、うち3年間は研究室で実験をしていました。
別に何か特別な意思を持って専攻を決めた訳ではありません。
本を読むのも作文を書くのも好きな子だったのですが、高校生になり「好きなこと・やりたいこと」ではなく、「できること」で進路を決めた結果、より点数が取れた理系を選んで流され流され行き着いた先です。
脳科学・遺伝学・生理学・分子生物学、様々な授業をとりました。
周りがいくからという理由で大学院にも行きました。
実験をして解析しての日々は楽しくはありませんでしたが、何かしらの結果が出ると前に進んでいた気がしたし、これが楽しいということなんだろうな思ってました。
卒業後の選んだのは企業の研究職でした。
企業はアカデミックよりは社会の役に立ってるし、今までなんとなく研究してきたけど、それが社会的な大義名分のためだったらある程度やってることも正当化できるし、ねえ・・・
そんななんとも消極的な理由で就活をしていた私ですが、運良くある日用品メーカーに拾っていただき、製品に入れる化学物質の成分量を測定するという仕事をしておりました。
特に不満があった訳ではありませんが、ここでもとりあえず仕事が前に進んでいてやった感だけが募るという甘ったるい日々が続いておりました。
そんな時、偶然書店でこの本を手に取りました。
理系を選択して大学にいってからというもの科学の教科書と論文しか読んでいなかった私にとって人文系の本など全く縁遠いものでしたが、書かれていたポップに惹かれて買ってみることにしました。
そこに描かれているのは、誰かの物語の切れ端でした。
その人が歩んできた道の少しをスプーンですくい取って水の中に溶けていくのをみるような、そんな語りが集められています。
そしてその溶けていく様の中に、自分や自分の過去をみるような、そんな不思議な本でした。
論理的に、客観的に、そうすることで世界を理解しようとする私にとって馴染みがあるはずの科学とは真逆の、感覚的に、主観的に語られるそそれぞれの物語は愛おしく輪郭をなぞりながら、これが人間らしさなのだと強く訴えかけてきました。
そして、その言葉の方が甘美なのに説得力があり不思議と理解できる気がしてしまったのです。
それからというもの、社会学や人類学の本をたくさん読むようになり、日に日にそんな人々の物語の中から紡がれる世界をもっと理解したいという気持ちが大きくなりました。
そして、先月慶応の通信課程文学部へと出願する次第となりました。
もし合格すれば、4月からは晴れて大学生です。(通信とはいえ落ちることもあるそうです…ひぃっ)
できることの先に流されついた先にあった日々は、「心のそこのなんかこれじゃない感」と戦う自分を抑え込むものでした。
ある見方に立てば神経科学の方が「役に立つ」と言えるかもしれません。
でも、役に立つことと人生のまばゆい瞬間に繋がるかどうかというのはまた別問題です。
仕事をやめて一から自分探しといった思い切りのいいことをすることはできませんでしたが、それでも今、自分の学んでみたいことを選択して行動してみたという一歩は私にとって大きなものです。
合格したらまた報告します(多分落ちても…)
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