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ディスカッションが苦手な日本で、アートが果たすべき役割とは〜あいちトリエンナーレを考える_富士山展3.0トークショー(3)

(1)日本のアートは2011年を境に変わってしまった
(2)芸術?エンタメ?ファッション?アーティストがぶつかる領域問題

登壇者

登壇者

【左】施井泰平【中央】増田セバスチャン【右】藤田直哉
(プロフィールは(1)参照)

施井泰平
領域と分断という意味では、あいちトリエンナーレの炎上が去年ありまして。あいちトリエンナーレって、最初の段階から男女の数を平等にしますって言ってたりとか、これまでのアートフェアやイベントと一線を画したプロモーションをしてたりする印象があったのです。結果的に、確かにすごく分断を露わにしましたよね。あの時を分析した藤田さんの文章が面白かったので、紹介して欲しいです。

藤田直哉
あいちトリエンナーレの件って、みなさんご存知ですよね。「表現の不自由展」っていうのがあって、従軍慰安婦や天皇の表象を使ったら、右翼の人に文句をつけられて。それで中止になって、ネットを中心に大騒ぎになって、文化庁が中止にするなら助成金を出さないと言いだした。市長と知事が揉めるという政治的な事件にもなりましたね。

でも、あれはつまり、そういう色んな対立があって、今の日本での表現が不自由になっているということを露呈させ、ある種炎上状態を作っていく。そういう社会を動かすアートとして見れば、よくできている面白いものだったなというのが僕の評価なんです。

ただまあ、ちょっと不満があって。フェミニズム的な男女同数にするというのはいいアクションなんですが。全体がなんとも行儀がいいですよね。そこは創造的ではない。正しさが決まっている、固定している、という感じが展示のレイアウトに感じられてしまって、そこがつまんないといえばつまんない。

日本の美術はどうしても閉じたものになりやすい土壌で、そうじゃないものを作っていこうというとする彼らの創造性とか、対応しようとするアーティストたちの振る舞いとか、その進化していく姿は創造的で、そこは評価するという立場でした。

論考で書いた内容は、現代というのは、人々が右翼とか左翼とかに別れて、使っている認識と言葉が違って全く話が通じない。それが「分断」という言い方になったりしますが、つまり全く話が通じないわけです。

論理的にいっても論理がそもそも通じないとか、エビデンスがいるという人もいれば、感情で決めていいんだ、という人もいて、話にならないわけですよ。

その中で、ロジックでちゃんと話せば啓蒙できるんだっていうリベラルの啓蒙主義の傲慢さと限界は確かにあって。そんな中で、アートは言葉で「対話」をするのではなく、言葉以前の感覚とか感情のレベルで人々に通じるツール、なにかの行間を通じて社会の合意や経験を共有するツールを作れるんじゃないか、発明しなきゃいけないんじゃないかなって僕は言ってました。

つまりインターネットとかSNSが発達した結果、分断が顕在化している状況だから、それを踏まえた上でアーティストは別のメディアの発明をするなりして、感覚的なものをも伝えるツールを作ることでこの状況を解決できないだろうか、解決してほしいな、と書いたんです。それがあいちトリエンナーレでもっとやるべきことだったと僕は言いました。

増田セバスチャン
大きな芸術祭の中で、アートを通して世の中を批判するというのは画期的だとは思ったんです。でも日本にはディスカッションする文化がないんですよね。本当は中止をする前に、何がいいか、何がダメなのか、何が必要なのか、ディスカッションができればよかった。

僕はNY大学の客員研究員として授業をした時、ディスカッションの文化についてすごく考えました。向こうは、小さい時から無料の美術館にいって、このアーティストはどう考えているんだろうってディスカッションする時間がある。日本は全くそういうのがなくて、図工の授業でも綺麗な絵を描くのが正解とされていて、正解に向かって描いていく。ディスカッションができないから、こういう状態になる。海外ならディスカッションしてあそこで終わらない。

藤田直哉
ドイツではそもそも芸術祭って、市民の対話や議論のきっかけづくりとして捕らえられている。公共圏っていう考え方が染み付いていて、理性的な対話をして社会を作っていきましょうという土壌がある上で、作品が展示される。一方、日本ではどうなったかというと、炎上して感情的になって、市民的な対話や議論は生まれにくかった。これがドイツと日本の差だなと思いました。

対話とかディスカッションの文化がない、これが日本なんだな、戦後の民主主義ってなんだんだろう、丸山真男が嘆くなと思いましたね。でも、これが今の日本なんですよ。近代的な市民じゃない、理性的に大人同士で対話をする文化を持っていない。感覚的に反応するしかなくて、ディスカッションを理性的にするのではなく、共感をするという文化、その帰結なんだなと思ったんですよね。

→(4)ブロックチェーンに期待される「アートの民主化」その真の力とは?

(1)日本のアートは2011年を境に変わってしまった
(2)芸術?エンタメ?ファッション?アーティストがぶつかる領域問題
(3)ディスカッションが苦手な日本で、アートが果たすべき役割とは〜あいちトリエンナーレを考える
(4)ブロックチェーンに期待される「アートの民主化」その真の力とは?
(5)70年代のハローキティ、震災後のきゃりーぱみゅぱみゅ。平和への願いがKAWAIIを生み出す
(6)原宿発のカウンターカルチャー「KAWAII」がなぜ国や企業の後押しを得るのか

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