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シンパシー・フォーザ・デビル

 「どこ見て歩きゃ褒めてくれんだよ」

 これは『ピンポン』に出てくるアクマという少年の言葉だけれど、若干十六歳の放った台詞が、大人になればなるほど深く刺さって痛みを増してきた。

 今日、ピンポンのアニメと映画を一気に観た。もう何度観たか知れないくらい繰り返し観ていて、正直DVDは動作がちょっと怪しい。アニメは本当に原作に忠実なんだけれど、より厚くなったキャラクターの心情描写や、声優の話しかたを映画に寄せている感じが本当に良くて、もうずっと泣いてしまう。

 ところでさまざまなところで触れ回っていることだけれど、わたしはアクマが好きで好きで仕方ない。ひたむきさだとか素直さだとか演者が大倉さんだとか(またか)理由はいろいろあれど、やっぱり彼の“近さ”によるところが大きい。ヒーローのペコや常勝のドラゴンみたいないかにもフィクションなキャラクターたちのなかでアクマは、誰よりも現実に近いところに立っている。

 努力の虫であるアクマは、天才肌のペコと秘めた才能を持て余すスマイルの傍ら、緻密な分析や地道な努力を重ねるものの、やがてその血の滲む努力が才能の前に散っていくという残酷な役割を担っている。『ピンポン』はヒーローの挫折と復活、そして彼による救済の物語だけれど、ペコが努力の結果華々しい道を駆け上がっていく一方で、アクマのたどる道は生々しくリアルだ。努力も真面目さも才能の前には平伏すしかなく、必ずしもそれらが実を結ぶとは限らない現実性を否応無しに突きつけてくる。

 サッカー選手になりたいとかバンドで飯を食いたいとか、何だっていいんだけど、ごく一握りの才能と運に恵まれたひとのみが歩める道を諦めてきたひとはきっと多い。そういう諦めや挫折に、アクマはそっと寄り添える距離にいる、いわゆるぺこやスマイル、ドラゴンになれない“その他大勢”の代弁者なのだ。

 わたしはちょっと、作品のキャラクターに対する感情の向けかたが特殊なので、「こんなに素直で努力家で優しい、しかもたった十六歳の少年にこんなもの背負わせるなんて酷だ」とかいうむちゃくちゃな理由でびょおびょお泣いていた。けれどもここ数年、作品を鑑賞するなかで彼を観て思うことが変わってきたなと思う。

 どうも中途半端にアクマの挫折が自分とタブるのだ。わたしが自分の夢に対して血反吐を吐くまで努力したかといえば否だけれど、やっぱりどうしたって叶わない夢を見続けるわけにもいかなくなるときがくる。夢なんてどれだけ見ようが自由だし、始めるのも終わるのも、また続けるのも自分の裁量次第だ。だからこそ、どっかでケジメをつけなきゃなんないときがくる。やめないにしたって、時間や気持ちの配分が変わってきたり、それまでみたいな全ての熱量を向けられなくなったりする。そういうときが、まあ多くの場合はくる。残念ながら、わたしも例外ではなかった。

 才能のある人間を見てなんで自分じゃないんだとか、どこで間違ったんだろうとか、そういうことをすごく思っていた。でもだんだんそういうひとらを見て、羨ましいなと思って、思うだけになってきた。最近はそうあれない自分にそれらしい理由をつけて、自分を慰めている。それに、なんだか折り合いをつけるのもうまくなった。

 そうやって自分の悔しさや悲しさから距離を置けるようになることが大人になるってことなら、ものすごく悲しい。

 まったく本当に、どこを見て歩けば褒めてもらえるんだろうか。なにも褒めてもらいたくて何かしてきたつもりもないけれど、それでもどこかで誰かに褒められる方法を考えていて、そうしてまごついているうちに本当に褒めてもらいたい人は死んでしまったりなんかして。

 ダブってきたならとことん、アクマみたいにスパッと諦めがついたらいいんだけれど、まだ「悔いだけは残したくねえからよ」の場所まで到達しきっていないわたしはこうして、夢の切れ端にしがみついて未練たらしく何かを書き連ねている。いつかもしすっかり足を洗うときがくるまで、どこ見てたって褒めてほしい。高く飛べなくてもいいから。