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学校の勉強は役に立たない

少年は「小説家」という呼び方よりも「作家」という呼び方の方が好きでした。なんだか、その方が幅の広さを感じたからです。

小説だけでなく、詩でもイラストでもエッセイでも、何を作るのも作家の領域だという気がしました。広義の意味ではマンガ家や芸術家も作家の一種でしょう。

なので、少年の好みに合わせて、以後は「小説家」の部分を「作家」と表記します。


さて、作家を目指し始め、必要な才能を1つずつ獲得していく決心をした少年でしたが、ここで1つの事実に気づかされます。

「作家になる勉強を学校では何1つ教えてくれない」のです。

それは、そうです。だって、ここは受験校。中学1年の入学式からずっと、みんなは「一流の大学に合格すること」を目指して勉強しているのです。もちろん、学校の先生たちだってそのつもりで教えていますし、授業の内容もそれに即したものでした。

「さて、困ったな…」と少年は思いました。

このままでは作家になる勉強が何1つできないのです。正確に言えば、ちょっとばかし違っていました。

「作家になるためには、何をやってもいい」のです。全ての経験は、素晴らしい作品を生み出すための役に立つでしょう。その経験が人と違っていればいるほど、人として不幸であればあるほど、よりレベルの高い作品を生み出しことができるとさえ言えました。

そういう意味では、このまま受験校で勉強を続けるのも1つの経験であり、作家になるための道ではあります。ただ、「割には合わない」というだけで。

きっと、世界はもっと広く、大きく、果てしなく深い場所でしょう。こんな狭い教室で勉強するよりも役に立つことや、想像もできないような経験ができる場所があるはずです。

少年は直感的にそれを知っていました。あるいは「マスター・オブ・ザ・ゲーム」の能力が「史上最高の作家になるための最短ルート」を示していたのかもしれません。

「つまんないの…」

少年は、生徒たちがすし詰めにされた狭い教室の中でボンヤリと考えました。

「数学も物理も化学も、作家になるためには全然役に立たない。現代文も古文も漢文も、同じ文章を扱うジャンルとはいえ、小説を書くのとは全く違う。日本史や世界史だって、歴史上の英雄の物語を読むのであればいいけれど、この授業のやり方では小説とは結びつかない」

少年が、唯一「作家になるために役に立つかな?」と思ったのは「生物」の授業でした。たとえば、カニやエビは動物プランクトンとして生まれます。ゾエアという名で幼少期を過ごし、成長してメガロパになり、最終的に皆さんが知っているエビやカニの姿になるのです。

「これは何かの物語に使えるな」と思いました。

数学だって日本史や世界史だって、捉え方によっては作品を作るためになんらかのヒントになったでしょう。が、基本的に受験のための勉強なのです。つまらないのは当然だし、作家になるために直接役に立つわけでもありません。

もしも、少年が通っていたのが芸術系か技術系の学校にであれば、まだマシだったのかもしれません。でも、受験校は、彼が望んでいる「社会経験」からは最も遠い場所にありました。

「早く働きたいな…」

少年は、そんな風に思うようになっていました。

近所のスーパーでもコンビニでも魚市場でも工事現場でも、なんでも構いません。とにかく働きさえすれば、「作家になるための経験」が得られるのです。

少年が持っていない「作家になるための条件」の1つに「人並外れたズバ抜けた経験」というものがありました。きっと、この学校では得られない経験が、社会に出れば手に入るはずなのです!

この時、既に少年は勉強に対する興味を失っていました。

興味がないということはつまり、極端に能力が落ちることを意味します。これが「マスター・オブ・ザ・ゲーム」の弊害でした。ゲームの対象になっている間は常人の数倍のスピードでクリアしていくことができますが、興味の対象外になった途端、並の人以下。ヘタをすれば能力が数分の1~数十分の1まで落ちてしまうのです。

もちろん、この時の少年がハッキリとこの能力のリスクとメリットを理解していたわけではありませんけどね。それでも、なんとなく「この場にいてはいけないな」という思いが心を支配しつつありました。

noteの世界で輝いている才能ある人たちや一生懸命努力している人たちに再分配します。