[短編] マイクロクラック

昨日、マグカップが割れた。

柔らかいラグの上、数十センチ落としただけだった。使い込んだせいだろう。寿命とばかり、ぱか、と真っ二つに割れた。空だったのが幸いだった。
翌日である今日、私は大量のマグカップをメルカリに出している。

あの晩。そう、二人住み慣れた家を出る前の日だ。揃いのカップで私はコーヒーを飲んだ。酸化したそれは酷く不味かった。
「そんなの、よく飲めるね」
その声は柔らかだ。相手のカップに入っていたのは紅茶で、薄く湯気を立てる。
「そうかな」
うつくしい目が痛ましげに細められる。最後と分かって、私もできる限りそっと笑い返した。

そんなマグカップをしまい込み、新しいカップを求めたのが始まりだった。憎らしいことに、よくよく好みは把握されており、安価でありつつ気に入ったカップではあった。
だから、代わるカップは気に入ったものでなければならなかった。そうして、あらゆるショップを彷徨った私はマグカップ沼の扉を開き、30を超えるカップを集めるに至った。

好きな形のもの、絵具で遊んだ柄に、尻尾のような取手や、ブランドもの限定品。どれもこれもお気に入りのはずだ。記憶が曖昧なのは、数が増えればしょうがない。
メルカリの記入欄にブランド名と使用済みであることを明記すれば、画面はあっという間に通知で埋まる。

皮肉なことに、好きだったものほど早く売れた。近場で買い込んだ小型のダンボールに端から詰めていく。プチプチでぐるぐるにしたそれは、少しだけ滑稽だ。
きれいになった食器棚を見て、得たのは妙な浮遊感と自由だった。それは、あの日の別れと似ていた。

些細と称するには傷つけ合いすぎた。来世まで会うことはあるまい。数年の時を経て自らの悪いところ見つめられるようになったものの、会うと思えば苦痛が伴う。
それでも、悪い思い出ばかりではなかった。

「じゃあ」
「うん。元気で」
そんな言葉を交わした。駅まで一緒に行くこともできずに、アパートの前で別れた。振り返りもせず。

二人の敗北宣言だった。一人は二人には成れなかった。今頃あの人は二人になっただろうか。あるいはそれ以上かもしれない。
それを知ることはもうないけれど。

割れたカップに瓜二つ、たったひとつ家に残ったそれが使われることはもうない。
それでも、私はかつての定位置に戻した。

墓標であり、傷であり、いつかの青写真だったそれは、ずっとそこにあったかのように収まった。

万が一集まったら製本してコミティアで頒布します