悲劇のヒロイン

改めて話すと、自分は5才から13才まで主に男3人、養父、その他の男性から性的虐待を8年間受けて、宗教に支配された家庭で育った。妹は生まれた時から体が弱くて、守らないといけなかった。両親は、幼い妹と自分を真夜中の家に残して夜遊びした。夜泣きする妹を抱きかかえて、妹と一緒に泣きながら玄関で親を待つ日もあった。父はアル中でDVが酷く、父方の祖父は借金が返せず焼身自殺。母親は2度の結婚と離婚。叔父は精神障がい者で会話が成り立たない。しかも癇癪を起こすと暴れて暴力を振るわれる。母方の実家はとっくに家庭崩壊していて、幼い自分の目の前で母と祖父が怒鳴って互いに暴力を振るい合う。まともな大人が周りに居なかった。

自分はそんな環境で育ったけれど、小学5年生頃までは天真爛漫な子供だった。よく空想の世界の中に耽り、おだてられるとすぐに調子に乗ったし、誰に馬鹿にされようがヘラヘラしていた。どんなに母親に怒られようが、暴力を振るわれようが、大泣きするでもなく、泣いても笑って受け流していた。

小学5年生になって、自分が受けている虐待について考えるようになった。心も体も成長して、積み重なった奥底の怒りが、いきなり爆発して大人しくなった。でも両親には反発しなかったし、家族に聞いても、自分に反抗期は無かったと言うに決まっている。そのくらい静かになった。笑って耐えることが馬鹿馬鹿しくなったんだと思う。自分を自分で可哀想だと思ってあげないと、誰にも慰められなかった。ある日、養父から理不尽な言葉を吐かれたときに、咄嗟に口答えしたことがある。その時に「お前、悲劇のヒロインぶってんじゃねえぞ」と言われた。これは未だに心に刺さっている言葉で、流石に(相手を)怒っても良いんじゃないか?と思うと、頭の中にいる養父が

「悲劇のヒロインぶってんじゃねえぞ」

と言う。呪いの言葉だ。何も言い返せなくなるのだ。

インターネットで呼称されている「メンヘラ」について見ていると、自分を可哀想だと思うことは悪いことだと思われ、笑われている。自分を哀れむことはいけないこと、構って欲しい人がすることだと沢山の人に思われている。じゃあ、誰が自分を慰めてくれるのだろうか。そもそも「悲劇のヒロインぶるな」とは誰が最初に言ったのだろうか。可哀想だ可哀想だと言われるのも嫌だけれど、誰が自分を可哀想だと言って落ち着かせてくれるのだろうか。

ネットスラングの「メンヘラ」 心に病を抱えている人間を馬鹿にするこの呼び方が許せない。確かに常にネガティブな人間を見ているのは辛いし、その本人が辛いことから離れる気が無いくせに、解決する気も無いくせに、不平不満を言ってる人間は嫌に思うだろう。構って欲しいのに、遠回しに他人に構ってもらおうとする行為をわざわざするような人間は面倒に思う。ただ、自分が許せないのは「メンヘラ」と「精神病患者」を一緒くたにされているからだ。メンヘラと精神病患者は全く違う。ネット上に蔓延っているメンヘラは病院に行かないで、自分は精神病だと言っている迷惑な人間だ。「メンヘラ」という言葉が精神病患者を苦しめる。軽々しくメンヘラと呼ばれるせいで、本当に心に病を抱えた人間が馬鹿にされる。本来、守られる立場である精神病患者が「構ってちゃん」だと言われる。いくら精神薬を飲もうが、偏見が消えないせいで治るものも治らない。

話しが逸れてしまったが、自分を可哀想だと思っても、何も恥ずべきことではないし、自分で自分を慰めることも悪いことではない。「悲劇のヒロインぶってんじゃねえぞ」という呪いの言葉をなんとかしたい。

今回は「悲劇のヒロイン」これについて向き合おうと思う。複雑な環境で育ち、17歳で家を出た。フラッシュバックに悩まされ、リストカットがやめられず、心療内科に通い、23歳の今でもリストカットが続いている。睡眠薬がないと眠れない。

自分の地雷は家族のことだ。自分が家庭、いや境遇コンプレックスを拗らせているから。他人から、面白半分で家族のことを聞かれるとイライラしてしまう。

例えば、自分が昔から両親に手を焼かせる子供で、いくら叱られても言うことを聞かない。親に迷惑を掛けて育った人間だとしよう。それで、口で言っても無理だと悟った両親から、暴言を言われたり、暴力を振るわれることになったとしたら、それは自分が悪い。いくら不幸だと嘆こうが、親に反発しようが、自業自得だ。

けれど、自分は生まれた時から、家は複雑で、両親が親という役割を果たさなかった上に、自分を叩き暴言を吐く。しかも養父や、他の大人の男達から性的虐待を受けて、母や養父、養父の家族、母方の祖母から宗教の洗脳をされそうになった。性的虐待を母に相談したら「男好き」だと罵られた。高校生の頃に市役所に助けを求めたが、何も解決しなかった。1㎜も自分に非は無い。自分は悲劇のヒロイン以外に何なのだろうか?

自分を植物に例えると、親が尊厳だとか自尊心、自己肯定感という花の種を持ち、土を耕してその種を蒔いたとする。その種(自分)に、両親が毎日ではないがたまに水をやる。芽(自分)を出すが、芽が出るたびに親から土から出た部分を千切られる。さらに両親以外の人間から、千切られた部分に土をかけられる。その芽は花を咲かせることもなく、ただ根を張るしかない。でも、植物(人間)であるからには、花(自尊心や自己肯定感)を咲かせなくてはいけない。もう両親は居なくて、水を与えてはくれない。だから、根(自分)が自ら肥料を求めて与え、自力で花を咲かせる。それがどうしても理不尽でならないのだ。

もう水を与えてくれない両親がいない自分は、どうやって生きていけば良いのか。それはもう考え方を変えなくてはならない。生まれた環境はどうであれ、人生は自分の物だからだ。いつまでも親のせいにしていても、過去に囚われていても、何も良い方向に進まない。それは頭では分かっている。頭では分かっているのに、感情がそれを許してくれず困っているわけだ。

自分が自分を可哀想だと思ったから慰める。自分は悲劇のヒロインで良いのだ。

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24歳。気分変調症、持続性抑うつ障害、不眠症、自傷行為がやめられずメンタルクリニックに通院中。カルト宗教三世。家族からの虐待。5才から8年間の性的虐待。虐待の後遺症を癒すため、自分の過去と向き合い日々の文章を綴る。
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