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「トマスによる福音書」試論


はじめに

 筆者は宮川創先生のコプト・エジプト語の授業を今年の4月から受講している。学習を始めて3、4ヶ月であるが、コプト語を身につけるためにはコプト語のテクストそのものと格闘するのが望ましいであろう。そこで以下では「トマスによる福音書」を独学で読み進めていく。なお『ナグ・ハマディ文書』や「グノーシス主義」とは何かという点について筆者は詳しくないので、こうした事柄も「トマスによる福音書」を読みながら学んでいきたい。

凡例

 コプト語の辞書としては「Coptic Dictionary Online」を参照した。
 コプト語文法書としては宮川創 2021「東外大OA「コプト・エジプト語初級」」を参照した。
 「トマスによる福音書」のコプト語原文と邦訳については、以下の文献を参照した。

秘教的文書としてのトマス福音書

ⲛⲁⲉⲓ ⲛⲉ ⲛ̅ ϣⲁϫⲉ ⲉⲑ ⲏⲡ` ⲉⲛⲧⲁ ⲓ̅ⲥ̅ ⲉⲧ ⲟⲛϩ ϫⲟⲟ ⲩ ⲁⲩⲱ ⲁ ϥ ⲥϩⲁⲓ̈ⲥ ⲟⲩ ⲛ̅ϭⲓ ⲇⲓⲇⲩⲙⲟⲥ ⲓ̈ⲟⲩⲇⲁⲥ ⲑⲱⲙⲁⲥ
これは、生けるイエスが語った、隠された言葉である。そして、これをディディモ・ユダ・トマスが書き記した。

(「トマスによる福音書」荒井献訳263頁)

単語

  • 【男性名詞】ϣⲁϫⲉ:(サイード方言)言葉。

  • 【動詞】ⲥϩⲁⲓ̈ⲥ:(サイード方言)書く。

  • 【固有名】ⲇⲓⲇⲩⲙⲟⲥ ⲓ̈ⲟⲩⲇⲁⲥ ⲑⲱⲙⲁⲥ:ディディモ・ユダ・トマス。「ⲇⲓⲇⲩⲙⲟⲥ(ディデュモス)」はギリシア語では「δῐ́δῠμος」(双子)。「ⲑⲱⲙⲁⲥ(トマス)」は古典ギリシア語では「Θωμᾶς」(双子)。トマスはイエスの「双子」という言説もある。

 まずこの冒頭では著者とその内容が示されている。この文書の著者が本当に使徒トマス本人なのか、代理で誰かが書き記したのか、トマスのなりすましが創作したものなのかはここでは問題としない。
 内容に関わるものとして重要なのは、これが「隠された言葉 ϣⲁϫⲉ ⲉⲑ ⲏⲡ`」であるという点である。それがもしイエスの言葉であろうとなかろうと、なぜ「隠された言葉」をわざわざ書き記しておく必要があったのであろうか。そもそもこの文書は人に見られることを目的としたものなのか。著者はこの文書の閲覧可能な権限の範囲を〈パブリック〉ではなく〈クローズド〉なものとして想定していたのだろうか。「秘密」というものは本来的に〈クローズド〉なものであって〈パブリック〉にはなり得ない。したがって「パブリックな秘密」というのは形容矛盾である。したがって、「隠された言葉」の文書が「トマスの福音書」として一般的に流通しているということは、話者自身にとっては想定されていないはずである。限定された一部の人間にしか閲覧できないということ自体が、組織の結束力を高めるのに役立ったのではなかろうか。

不死の御利益

ⲁⲩⲱ ⲡⲉϫⲁ ϥ ϫⲉ ⲡⲉⲧⲁ ϩⲉ ⲉ ⲑⲉⲣⲙⲏⲛⲉⲓⲁ ⲛ̅ ⲛⲉⲉⲓ ϣⲁϫⲉ ϥ ⲛⲁ ϫⲓϯⲡⲉ ⲁⲛ ⲙ̅ ⲡ ⲙⲟⲩ`
そして、彼が言った、「この言葉の解釈を見いだす者は死を味わうことがないであろう」。

(「トマスによる福音書」荒井献訳263頁)

単語

  • 【接続詞】ⲁⲩⲱ:そして

  • 【動詞】ⲡⲉϫⲁ=(ⲡⲉϫⲉ-の過去形):(サイード方言、ボハイラ方言)言った

  • 【代名詞】ϥ:(サイード方言)彼

  • 【動詞+前置詞】ϩⲉ ⲉ:(ⲉ不定詞)〜するようになる、〜し始める

  • 【名詞】ⲑⲉⲣⲙⲏⲛⲉⲓⲁ:意味、解釈、翻訳

  • 【属格標識】ⲛ̅:〜の

  • 【名詞】ϣⲁϫⲉ:言葉

  • 【動詞】ϫⲓϯⲡⲉ:味わう

  • 【助詞】ⲁⲛ:否定辞

  • 【属格標識】ⲙ̅:〜の

  • 【名詞】ⲙⲟⲩ`:死

以下、イエスの言葉が続くコンテクストから見て、ここで「彼 ϥ」はイエスのことであろう。荒井献は、「彼」をトマスと取る解釈を取り上げた上でその解釈を退けている(荒井献1994)。ここではイエスの言葉を解釈することによって不死という効用(御利益)が得られると端的に述べているように見える。しかしながら、「死を味わうことがない ϥ ⲛⲁ ϫⲓϯⲡⲉ ⲁⲛ ⲙ̅ ⲡ ⲙⲟⲩ`」というのは、実は不死の意味ではなく、単なる比喩の可能性もある。そもそも死を味わった経験を持つ生きた人間など存在しない。生物において生と死は、前者から後者に移行するものであって、同時には両立しないものである。「死を味わうことがない」ということが、実在的な肉体の不死を意味するものではなく、麻酔のように生から死への移行における自覚的な苦しみを緩和することを意味するものなのか、あるいは肉体ではなく魂の不死性によって実在的な肉体の死の超越を意味するものなのか、ここでは判然としない。

「万物の王」は何を支配するか

ⲡⲉϫⲉ ⲓ̅ⲥ̅ ⲙⲛ̅ ⲧⲣⲉ ϥ` ⲗⲟ ⲛ̅ϭⲓ ⲡⲉⲧ` ϣⲓⲛⲉ ⲉ ϥ` ϣⲓⲛⲉ ϣⲁⲛⲧⲉ ϥ` ϭⲓⲛⲉ ⲁⲩⲱ ϩⲟⲧⲁⲛ` ⲉ ϥ ϣⲁⲛ ϭⲓⲛⲉ ϥ ⲛⲁ` ϣⲧⲣ̅ⲧⲣ̅ ⲁⲩⲱ ⲉ ϥ ϣⲁⲛ` ϣⲧⲟⲣⲧⲣ̅ ϥ ⲛⲁ ⲣ̅ ϣⲡⲏⲣⲉ ⲁⲩⲱ ϥ ⲛⲁ ⲣ̅ ⲣ̅ⲣⲟ ⲉϫⲙ̅ ⲡ ⲧⲏⲣ ϥ
イエスが言った、「求める者には、見いだすまで求めることを止めさせてはならない。そして、彼が見いだすとき、動揺するであろう。そして、彼が動揺するとき、驚くであろう。そして、彼は万物を支配するであろう」。

(「トマスによる福音書」荒井献訳263頁)

単語

  • 【使役標識】ⲧⲣⲉ-:〜させる

  • 【動詞】ⲗⲟ:止める

  • 【動詞】ϣⲓⲛⲉ:探し求める

  • 【助動詞】ϣⲁⲛⲧⲉ-:〜するまで

  • 【動詞】ϭⲓⲛⲉ:見つける

  • 【接続詞】ⲁⲩⲱ:そして

  • 【接続詞】ϩⲟⲧⲁⲛ`:〜場合

  • 【条件節助動詞】ⲉ⸗ -ϣⲁⲛ-:〜するなら

  • 【動詞】ϣⲧⲟⲣⲧⲣ:取り乱す

  • 【動詞】ⲣ̅:〜する

  • 【名詞】ϣⲡⲏⲣⲉ:驚き

  • 【名詞】ⲣ̅ⲣⲟ:王

  • 【前置詞】ⲉϫⲙ̅:〜に対する

  • 【形容詞】ⲧⲏⲣ⸗:すべての、どれも

 文脈から見て、ここで彼が「求める ϣⲓⲛⲉ」ところのものは、真の意味での「(イエスの)言葉の解釈 ⲑⲉⲣⲙⲏⲛⲉⲓⲁ ⲛ̅ ⲛⲉⲉⲓ ϣⲁϫⲉ」であろう。イエスの言葉の真の意味にたどり着いた者は、驚きを以って「万物の王になる ϥ ⲛⲁ ⲣ̅ ⲣ̅ⲣⲟ ⲉϫⲙ̅ ⲡ ⲧⲏⲣ」のだという。前節では、イエスの言葉の意味を知ることによって、不死という効用(御利益)があることが示されていたが、ここでは神に匹敵する絶対的権力という効用があることが示されている。
 ところで「万物の王 ⲣ̅ⲣⲟ ⲉϫⲙ̅ ⲡ ⲧⲏⲣ」とは、具体的にはどのような事態を意味しているのだろうか。彼の支配の対象となる「万物 ⲧⲏⲣ」のうちには、人間社会すなわち人類は含まれているのだろうか。もし含まれていないとすれば、人間以外の「万物」とはこの世界に存在する物体あるいは動物や植物などの自然物などのことを意味することになる。サイエンスが発達した現代では、人間はほとんど「万物の王」に近い存在ではないのだろうか。ということは、「万物の王」になるとは、サイエンスで実在的な対象を支配するのとは別の意義を持つことになるのであろうか。
 「万物の王」というのを、人民に対する政治的な絶対的権力者と取るべきなのか、はたまた錬金術師のように自然物の変態を自由自在に操る能力者と取るべきなのか、ここでは明らかではない。

(つづく)

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