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「一滴の雨水」。選択肢。降りていくこと。―『猫を棄てる』を読んで―

今回は、村上春樹著『猫を棄てる 父親について語るとき』についての感想を書こうかなと思います。

まず読書後すぐの感想としては、

「はあ、まあ、そうだよな。」

という感じです。でも気になったところを読み返してみたり、こうして文章にする段階になった時に、最初の感覚は間違っていなかったのだと気が付きました。

まず、「はあ」の部分は、村上春樹の父親に関する感情や、二人の関係性について「へえ、そうなのか。」と単純な事実として受け取った僕の気持ちを表していて、そこにはもちろん戦争のことも含まれています。僕はありがたいことに、僕自身もそして親も戦争を直接経験していないため、「戦争」を想起する時には、どことどこが戦って、その原因は何で、どっちが勝って……みたいな大きな枠でしか考えられないけれど、もちろんそこにはその争いに否応なく巻き込まれてしまった個人個人の物語があります。それを「一滴の雨水」と村上春樹が表現していたのに凄く感心しました。

今回の本で、村上春樹の父親という一人の人間と戦争との関係性、そこにある物語を知ることで、戦争を小さな枠―実感を伴った物語―でも見つめることができ、改めて深く考えさせられました。

そして、「まあ」の部分。ここにはそれほどの意味はないです。ただのつなぎの「まあ」です。ごめんなさい。

最後は、「そうだよな。」の部分。何がそうだよなと思ったのかというと、一言でいえば運命論のようなことです。村上春樹も本書の最後の方で、両親がもし違う人生のルートに流されてしまって、二人が出逢ってなかったら……と(恐らく)感慨に耽っていますが、僕も同じことを幾度も考えてきました。

もし、父が………で、母も………で、二人が出逢っていなかったら、僕はこの世にいないんだよなとか、いやそんなことを言ったら、同じことが祖父母にも当てはまって…………と、どんどん話は広がっていくことになります。

そんな膨大な物語を考えると、「まあこれも運命か。」と安易な概念を使ってうっちゃっておきたくもなりますが、「いやいや、総ては細かな選択肢の集積にすぎないんだ。」と思いとどまる自分もいます。

でもその「選択肢」の中には、自分の力ではどうにも変えることのできない力によって否応なく選んだ道もある訳で、そんなことを考えると、僕が生きているこの現実が曖昧なものになる感覚をおぼえます。

村上春樹は本書で

手のひらが透けて見えたとしてもとくに不思議はあるまい。(p.90)

と書いていますが、まさにその通りだなと思いました。


あと気になった個所が一つあって、それは本書の最後、村上春樹が松の木に登っていったっきり見失ってしまった子猫のエピソードです。そこで村上春樹が得た教訓として

「降りることは、上がることよりずっとむずかしい」(p.94)

と述べていました。村上春樹は、小説を書くときに、自分の心の底に降りていく作業が欠かせないし、それは簡単なことではないと何かの本で語っていて、それがこの子猫の話とかなりリンクしました。

僕が今までよく聞いてきて、身をもって実感してきたのは「降りるのは簡単だが、上がるのは難しい。」というものでした。確かに、ある場合にはその法則みたいなものは適用されるかもしれません。例えば、何か目標があって、手を抜くのは簡単だけど、努力して成し遂げようとするのは難しいといったようなことです。

でも、それはそれとして、自分の心の底を探る場合などには、また違った苦労が必要なんだろうと思います。僕もなるべく自分の中に降りていけるように頑張りたいと思います。


話が変な方向に行ってしまいましたが、以上が『猫を棄てる』を読んで僕が考えたことの一部です。

僕も猫についてはいつも考えているので、少しずつ文章にしていきたいなと思います。(​以下は以前の記事)



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