「高齢者」の覚悟 〜僕たち、高齢者は、「死」とどう向き合うべきか?


                               8日前

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「高齢者」の覚悟
〜僕たち、高齢者は、「死」とどう向き合うべきか?


「高齢者」にとって最後の生き様が「美しい」なら、過去の選択はすべて正しかったことになる。人生という物語においては、「最後の場面」が最も大きな見せ場である。


蘇生措置を行わないという選択


新型コロナウイルスの感染が急拡大しているアメリカでは、一部の病院で心肺停止した患者への蘇生措置を行わない方針が検討されている。医療リソースが不足しているため、医療従事者の感染リスクを低減するためだ。ただし、そこには生命倫理の問題もある。
日々、感染者の死に直面し、医療崩壊の危機にある現場では、いま何が起きているのか──苦渋の選択を迫られている医師や看護師らの悲痛な声を、米紙「ワシントン・ポスト」が報じている。


患者や家族の意思に関係なく…


新型コロナウイルス流行拡大の最前線にあるアメリカの病院では、これまで直面したことのない難題をめぐり、内々に議論が繰り広げられている。

通常なら、最期まで手を尽くすという使命のもと、すべての患者に蘇生措置を施すのが当然である。しかし、新型ウイルスが蔓延している今、それは医師や看護師を感染のリスクにさらすことを意味する。

患者の急増で受け入れ能力の限界に近づいている医療機関は、この2つをどう天秤にかけるのかという問題に頭を悩ませている。


『高齢の患者さんに対しては、
大量のモルヒネを投与して安らかに逝っていただく』


コロナウイルス感染者が7万5000人超、死者が7500人超(3月27日現在)になったイタリアでは、高齢者が感染したら「死んでもらうしかない」というのである。ベッド数やあらゆる医療器具が不足しているからだが、一番深刻なのは、新型肺炎の治療に不可欠な人工呼吸器が全く足りていないということだ。イタリアの高齢化率は約23%で、死者の約9割が70歳以上である。

こうした状況では、「患者を選別せざるを得ない」。医師は「人工呼吸器の数が足りない以上、若く、助かる見込みの高い患者を優先する」と語っている。それは正しい。トリアージとはとても残酷な概念なのである。集団感染のリスクから葬式も禁止されていて、病院の空きスペースには埋葬されないままの棺が積み上がっているそうだ。患者が亡くなっても、遺族は立ち会えない。これから、この国で起こるの医療崩壊とはそう言うことである。


さあ、「人生会議」のタームに突入した。


2019年1月、厚生労働省が推進する「人生会議」のPRポスターが発表された。そもそもは人生の最終段階でどんな医療やケアが受けたいかを家族や医師らと話し合おう、とする呼びかけだったが、恐怖心を煽るポスタービジュアルが爆発的な拒絶反応を引き起こし、医療機関への発送中止が即日で決定してしまった。だが、「人生会議」という言葉に触れ、その意味を知ること自体は得るものが大きかったのではないか?

個人的には、蘇生措置を施さず、安楽死ーという措置を取ってもらいたいと思っているが、もちろんそんなことを制度化、抽象化することは出来ない。だが、高齢者はそのくらいの覚悟は必要である。


僕たちは、次の社会へのランディングを拒み「権威」や「利権」にしがみついて、現役社会にぶら下がっているこの国の政府や国会議員の醜悪な「老人」ばかりを見せられている。「高齢者」の有用性は「いざという時」の鑑である。つまり、「高齢者」の核心的な存在意義とは、「果実」の表象ではなく、「種」のそれである。

新型コロナウイルスのような、人類が経験しない未曾有の危機が訪れた時に、僕たち「高齢者」が照らすのはヘッドライトではなく、テールライトであるはず。将来世代のために、最後まで敢然とした生き様を見せるのが「高齢者」の仕事である。

「高齢者」のゲイジュツの種のそれは、未来の社会で突然に芽を出し、大きく変異する。現役世代の人間に、これ以上の負荷をかけるわけにいかない。「高齢者」の使命は轍(わだち)に徹し、人生というゲイジュツにおいては、最後の場面が最も大きな「見せ場」なのである。

人間がほんとうに正しいことができるのは、自らの命の区切りが見えた時しかない。僕たちは、恥ずかしい「高齢者」ではなく、創造する『高齢者』になりたい。最後の土壇場でどう生きて、どう死んでいくのか。自分のためではなく、誰かのため、社会のために、自分の意志で決定したことをやり、あらゆるものにぶつかって必死にもがき、歌をうたい、下手でも絵をかき、泣いたり笑ったり、悲しんだりしながら最後は笑って死んで行くことの出来る「高齢者」になりたい。

「高齢者」にとって最後の生き様がゲイジュツなら、過去の選択はすべて正しかったことになる。人生という物語においては、「最後の場面」が最も大きな見せ場なのである。

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